fc2ブログ

空色ノート

中小路昌和のBLOGです。

-恋バイ⑨-  


恋愛バイアス


-46-


決勝戦当日を迎えた。光陰高校野球部を乗せたバスは、いつもの賑わいを見せていた。安藤がプレッシャーのプの字もない様子で先頭を切ってはしゃいでいる。いい空気だな、と七瀬は感じていた。勝てそうな気がする。そんな予感があるのだ。
決勝戦の相手は日向高校。甲子園出場の経験を持つが、最後にそれを果たしたのは十二年前である。古豪と呼ばれているが、今のチーム力なら光陰だって遜色はない。日向高校には目立った選手はいない。だがその分、守りを重視した全員野球で勝ちあがってきたチームだ。野球のスタイルは光陰に似ているのかもしれない。
下馬評では、好投手七瀬を擁する光陰高校が有利らしい。でもそんなものが当てにならないのは七瀬達自身がよく知っていた。下馬評通りなら光陰はこの位置まで来ていない。

球場に着くと試合前の全体練習が始まる。宮田校長が「しっかりやれ!楽にやれ!!」と、しきりに選手をリラックスさせようとしているのが笑えた。自分が一番固いじゃないか。
軽めの練習が終わり、後は本番を迎えるのみ。球場全体が熱気を帯びているのが分かる。いよいよこれに勝てば甲子園か。

ベンチ裏の控え室でチームメイトと談笑していると、平岡監督に呼ばれた。外に出るとサングラスをかけた初老の男性が立っていた。
「悪いね。試合前に」
男はしわがれた声で七瀬に言った。とりあえず帽子を取って頭を下げる。
「スカウトの者です。まぁ、もうかなりの人間から挨拶されたとは思いますが・・・」
かなりも何も一人にだって挨拶なんてされてない。
「とにかく悔いのないように」
男はそう言って、七瀬の肩をゆっくり叩くと年齢にしては軽く見える足取りで去っていった。
「まぁ・・・ここまで進めばこういうこともある」
平岡が七瀬に笑いかけた。

試合開始前のアナウンスが球場に響き渡る。日向高校のラインナップをポジションごとに紹介している。今日の試合は、先攻が光陰高校。後攻が日向高校である。七瀬は先発で打順は一番。今大会は当たっていて打率は354。出塁率は四割を超えている。ネクストバッターズサークルで、軽く素振りをしながら相手投手の投球練習を見ていた。特に目立つようなストレートは持っていない、という情報どおり打ち頃のスピードに見える。
七瀬はポケットに手をやった。そこにはお守りが入っている。試合前に平井紗希と平井沙織がチームメイト全員に、お手製のお守りを渡してくれたのだ。
「試合前に中身を見て」
平井紗希が七瀬に言った。
試合直前、こそこそとトイレに入り中身を見た。映画のチケットが二枚、そして数行の文字が並んだ手紙。

「光陰高校の攻撃。一番ピッチャー七瀬君」
試合開始を告げるアナウンスが流れると、光陰高校のスタンドが大きく湧いた。鳴り物付きの応援団が一気にムードを盛り上げる。
「勝ったら映画か・・・」
七瀬は口元に少しだけ笑みを浮かべると、バッターボックスに向かった。

試合は何となく重苦しいムードの中、進行していた。戦前の情報では守りが堅いと聞いていた日向高校にエラーが続出。リラックスしているようでも、初の決勝戦に動きが硬かった序盤の光陰高校を助けた。しかし初回と三回に、二点ずつ挙げたものの光陰高校も以降はランナーを出せずにいた。逆に日向高校がジリジリと追いすがる展開。四回に先頭バッターを四球で出したのを皮切りに、二本のタイムリーヒットを浴びて二点を失った。

七回裏、日向高校の攻撃は三番サード椿から。俊足巧打の選手らしいが、今日は全くタイミングが合っていない。七瀬は難なく椿を討ち取ると、四番レフト桂木を迎えた。
「要注意ですよ、こいつは」
白川が目で合図を送る。七瀬は分かってるよ、と首を縦に振った。今大会三本のホームランを打っている日向高校が誇るスラッガーである。慎重に対戦するのに異存はないが、白川はまた外角にミットを構えている。七瀬は低目を意識して外角へ丁寧なストレートを投げ込む。しかしこれが命取りだった。セオリーを覆す技術。桂木は思いっきり左足を踏み込んできた。打球は快音を残して、光陰高校応援団の悲鳴と共にバックスクリーンへ消えた。

九回表、光陰高校の攻撃。スコアは4-3。光陰高校一点リードで塁上は埋まっている。アウトカウントは二つ。打席には左の四番白川を迎えていた。七瀬は二塁ベース上にいた。肩で息をしている。やはり連投の疲れはここにきて彼を襲っていた。どうしても一本欲しい場面だ。相手投手相良は変化球で目先を散らし、最後にはストレートで勝負してくる。分かっているのだが、どうしても待ちきれない。それでもようやく慣れてきた頃にパターンを変えてくる。序盤と打って変わってストレートでカウントを稼がれ、変化球で絡め取られる。頭の中がぐちゃぐちゃになる配球。何ていやらしいピッチャーなんだ。七瀬はかろうじて初回にヒットを放っていたが、白川はこれまでの四打席全て凡退していた。平岡監督がこの回の攻撃の前に選手たちにアドバイスを送った。「来た球を素直に打ち返せ。今日の日向高校の守備なら転がせば何とかなる。好球必打を徹底しろ」

その甲斐あってかサードのエラーを皮切りに、二死満塁の大チャンス。ここは白川の打棒に期待するしかない。しかしかなりのプレッシャーを感じているようで、打てる気配がない。七瀬は焦った。しかしどうすることもできない。あれこれ考えてるうちに相良が投球モーションに入った。右手の握りをとっさに見る。ストレートだ。七瀬は心の中で歓声をあげた。白川はストレートに滅法強い。しかも監督からは好球必打の指示が出ている。相良のストレートが外角に投げ込まれる。白川は振りにいった。中途半端なストレート・・・のはずが、白川は振り遅れている。この馬鹿!頭の中から変化球が消えてない!!

打球は鈍い音を立ててサード前に転がった。球足は意外と速い。振り遅れながらも振り切ることに躊躇はなかったのだ。しかし真正面では・・・七瀬は舌打ちをした。しかし、その刹那サードがボールを後逸した。トンネルだ!!ボールはレフト線へ転がっていく。サードランナーの安藤が手を叩いてホームに生還。これで二点差。七瀬も三塁ベースを猛然と回った。セーフのタイミング。だがレフトから矢のような送球が本塁へ。好守の日向高校を象徴するレフト桂木のダイレクト返球だ。七瀬は躊躇なくキャッチャーの足元の隙間から見えるホームベースに足を滑り込ませる。スピードは死んでない。その瞬間キャッチャーミットに吸い込まれるボールの音を砂煙の中で聞いた。判定はアウト。七瀬は右足に激痛を感じた。


-47-


スカウトの宇津木がバックネット裏で、手帳に何やら書き込みながらマウンド上の七瀬を見ている。彼はマウンド上で両手を両膝についていた。客席からは悲鳴と歓声。ガッツポーズで塁上を回る四番桂木とは対称的だ。まさに奇跡的な逆転打。だが宇津木には三番椿に死球を与えた時点で勝負あったと見えた。

この回の七瀬は明らかに精彩を欠いていた。まるで別人のような投球で、先頭バッターに強烈なライナーを打たれた。好守の安藤が飛びついて一死は取ったがツキはここまで。続くバッターにセンター前にはじき返され、椿に死球。交代か?とも思ったが、光陰高校監督平岡は動かなかった。気力充分なボールではあったが、それが通用する相手ではなかった。四番桂木の今日二本目のホームランがライトポール際へ吸い込まれた時、やはり野球の神様はいるのだな、と思った。劇的なサヨナラホームランは光陰高校初の甲子園出場の夢を切り裂いた。そして手帳には走り書きで一行、「所詮、ここまでの選手」と書き殴られていた。

七瀬はマウンド上で呆然と立ち尽くしていた。九回表の攻撃で、足に激痛が走った。滑り込んだ際に捻ったのだ。立つのも辛い痛みだった。しかし黙っていた。まだやれる、と思った。先頭バッターに芯でボールを捉えられた。打球は安藤のグラブへ。ツキはこちらにある。七瀬は気力を奮い立たせた。それでも足がどうしても言うことを聞かない。今日全く当たっていない椿にデッドボールを与えた時点で、交代を打診すべきだった。だが、七瀬の脳裏には試合前に会ったスカウトの顔がチラついていた。完投しなければ・・・途中でマウンドを引き摺り下ろされるような無様な姿は見せてはいけない気がした。プロのスカウト。考えてもいなかったプロへの階段が僅かながら目の前に差し出された。夢というには過ぎた夢。それを目の前にした時、打算が七瀬の胸を覆った。マウンドを降りるべきだった。自分は甲子園に行くために頑張ってきたんじゃないのか?後戻りのきかない高校最後の夏は、甲子園への切符ごと消えた。


-48-

 
彼は胸を撫で下ろした。どうなることかと思ったぜ・・・心底安堵した。やるべきことはやった。この結果で自分が責められることはないだろう。やはり自分は悪人にはなりきれない。善良だとは言わないが、それがどうした文句あるか?と開き直れるほどの胆力はないのだ。
グランドに崩れる選手達・・・ホームベース上で歓喜に沸く選手達・・・安心感の後に去来した後味の悪さに顔を歪めながら彼は球場を後にした。


-49-


信じられない光景に声を失った。これからどうなる?男は自問した。そこにあるのは自己保身のみ。


-50-


スタンドは悲しみに包まれていた。矢野はグランドの七瀬と白川を虚脱した表情で見つめていた。こんな結末は予想だにしなかったに違いない。俺だってそうだ。甲子園出場が決まれば、在校生総出で甲子園に応援に行かなければならない。もしそうなったら決まっているライブはどうしよう?甲子園か・・・遠いな。そんなことばかりが頭にあった。試合前も試合中も、負けるだなんて一瞬も思わなかった。現実が暗転したのはほんの数分前のことだ。少し前に座る立石留美が視界に入った。友人達と共に肩を抱き合って涙を流している。それは本当に涙か?矢野は不快に思った。その時、グランドには見えない、ある男の顔が脳裏をよぎった。


-51-


佐藤警部補と渡辺刑事は球場を後にした。光陰高校のサヨナラ負け。現実はいつも淡々としている。
「惜しかったですね・・・」
渡辺は押し殺したような声を発しアクセルを踏む。佐藤はシートベルトをはめながら無言で頷いた。酒井幸一亡き後、よくここまでやった、と思う。しかしどうせここまで来たなら勝ってほしかった。光陰高校が決勝に進んだことを知った佐藤は我が事のように喜んだ。陰惨な事件はまだ進展を見せていないが、残された若者達が健気に前を向いて進んでいる事実が佐藤には嬉しかった。力負けと言ってしまえば、それまでの試合展開だった。日向高校にあれだけミスが出たのにも関わらず光陰高校は勝利を手に出来なかったのだから。
「何か声でも掛けていきますか?」
渡辺が言ったが、佐藤は必要ない、と言った。自分達の顔を見れば否応なく彼らは事件のことを思い出すだろう。今は目の前の現実を受け止めることすら叶わないはずだ。単純に彼らを応援していたが、自分達の職業はその気持ちを後押ししてくれはしない。つくづく因果な商売だと思う。
その時、無線が鳴った。
「会津翔子の交際相手、確保したそうです」渡辺が言った。


-52-


ブラウン管の中で高校球児たちが躍動している。時間と日を追うごとに決められていく勝者と敗者。劇的に色付けされた球児たちの夏は永遠に人々の目に焼きつくのだろう。甲子園という舞台に上がれた者たちだけに与えられる唯一の特権は、語り継がれることなのかもしれない。
七瀬達、光陰高校野球部OBは、光陰高校を破り甲子園に出場した日向高校の試合を見るために平井姉妹の家に来ていた。夏で引退した三年生のチームメイトはほとんど顔を出している。沙織は不在。新チームの練習に参加しているためだ。光陰高校野球部は新たに走り出していた。終わりを告げる夏は始まりを告げる夏でもある。決勝戦の後、しばらくは涙に暮れたナインたちだったが、その後の慰労会では笑顔を取り戻していた。勝負は時の運。自分達の夏に後悔はない、というのが各々が抱く共通した想いだったのだろう。ただ、七瀬は違った。チームへの罪悪感が消えない。だがチームメイトにはそれを見せないように気を配った。今更どうにもならないことにナインを巻き込むことはない。

日向高校は初戦で破れた。序盤で失った三点を最後までどうしても取り返すことが出来なかった。しかしその試合内容は、さすがは日向高校だと感嘆するに充分なものだった。自分達との決勝戦ではチームカラーである堅守が色褪せていたが、この試合ではその特色を遺憾なく発揮していた。何度となく訪れるピンチを好守で防ぎきった。特に決勝でエラーを連発していたサード椿は、素晴らしい守備を見せた。これが彼本来の力量なのだろう。大したものだ。反面、七瀬から二本のホームランを放ち、日向高校を甲子園に導いた四番の桂木は精彩を欠いた。広い球場に力みが加わったのかもしれないが、力任せのスイングが目立ち、打球を尽く打ち上げていた。七瀬との勝負でもこういうバッティングをしていてくれたら・・・と思う。野球とは本当に奥が深い。

日向高校の試合を見た後、安藤がボーリングに行こう、と言い出した。引退すると、毎日のように会っていたチームメイトと顔を合わせる機会は激減する。口には出さないが、みんなそれを寂しく思っていた。顔を合わせる機会があるなら出来るだけ会いたいし、時間が許す限り遊んでいたい。厳しい練習の日々中、遊ぶことなど二の次だったのだから。
 
ボーリングを終えて、各々が帰途に着く前に平井紗希に声をかけられた。
「映画の券、持ってる?」
平井は「先に行ってるね」と言って自転車を走らせた。七瀬は白川の「一緒に帰りましょう」という誘いを断って、わざわざ遠回りをして街の映画館に向かった。無事、映画館に着いたのは解散から一時間後の午後七時半。平井紗希は映画館の前で堂々と待っていた。
「遅いよ」
平井は少し拗ねた様子で「最終の上映には間に合ったけど」と笑った。

映画の内容は全く頭に入らなかった。映画を見ている間は、スクリーンより平井のほうが気になって仕方なかった。
足を痛めてから朝のロードワークはやってない。いや、足を痛めていなくても野球は引退だ。ロードワークの必要がない。そのせいで平井紗希に会う機会が激減した。今日、久しぶりに彼女に会った。試合後、彼女は何も言わなかった。ただ悔しそうに唇を噛んでいた。妹の沙織が号泣していたのとは対称的だ。その態度に七瀬は感心する、というより呆れた気持ちになった。確かに気丈な振る舞いだとは思うが、こんな時くらいは感情を爆発させたって罰は当たらないように思う。事実、七瀬は泣きそうだった。しかし泣かなかった。それは感情を表に出すのが恥ずかしかったからではない。自分には泣く資格がない、と思ったからだ。

映画館を出ると、七瀬と平井は少ない会話を挟みながら、夜の街をブラブラと歩いた。街というのは昼と夜で、その表情を全く変える。自分には不釣合いな場所だと思う。だが平井はどうだろうか。贔屓目なしに綺麗な顔立ちをしている。学校で聞いた噂では芸能界への誘いだって一度や二度ではないらしい。その超高校級の美女と自分は歩いている。夜の街を。明らかに見劣りするんだろうなと自嘲気味な気分になった。
「足、大丈夫?」
平井が痛めた右足を少し引きずるようにして歩く七瀬に言った。
「日常生活に支障はほとんどないよ。もうすぐシップも取れるし。思ったより重傷じゃなかったって感じかな」
「そう」
また会話が途切れる。何か言わなくちゃ、と七瀬は焦った。別に平井との無言の時間は慣れているし苦痛ではない。むしろ救われる気持ちになったことは多々ある。しかし今日は何故か沈黙が苦痛だった。
「ごめんな」
七瀬の口から自分でも意外な言葉が発せられた。平井は不思議そうに「何が?」と聞き返す。
「いや、だから・・・甲子園行けなくて・・・ごめん」
平井は足を止めた。
「甲子園に行けないことを謝らなくちゃ駄目だとしたら、この世の中には謝る人がたくさんいるね」
「それだけじゃないんだ。実は・・・」
「やめて」
平井は七瀬の言葉を遮る。
「エースはマウンドに立ったら、ゲームセットの瞬間までマウンドに立っていたいと思うものよ。怪我をしても球威が落ちても、理由は何であれエースなら絶対にそう思うはずだわ」
平井はそう言うと、持っていたバッグの中から汚れたボールを取り出した。
「最後の試合のボール。こっそり貰ってきたの」
ボールが目の前で踊る。七瀬は慌ててキャッチした。
「光陰高校のエースとしての自覚が最後の最後で生まれたのよ。結果はどうだっていい。私はそれが一番嬉しかった。だから・・・」
その時、彼女の目にうっすらと涙が浮かんだ。
「もう二度と謝らないで」


-53-


「リストから彼を外すな」
奴は顔色一つ変えずに無表情に言い放った。
「彼にプロになる資質は見い出せません」
宇津木もなるべく平坦な口調を崩さない。
夏の甲子園大会は、佳境を迎えていた。大会屈指の左腕、中道信雄を擁する三ノ輪高校が劇的なサヨナラ勝ちを続けている。対抗馬は超高校級スラッガー尾上を軸に圧倒的な破壊力で勝ちあがってきた生興学院だ。両校共に華のあるチームで、本大会は高い注目度の中で日程を消化していた。

「今年は高校生が豊作です。特に中道と尾上。この二人は今ドラフトで数球団が競合するのは、ほぼ確実です。他にも高校生に人材は事欠きません。我が球団は現在主力選手が充実期に差し掛かっています。こういう時期だからこそ将来性のある有望な高校生を率先して指名すべきです」
「彼に将来性はないと?」
「私はそう見てます」
宇津木は嘆息した。いつものことだ。毎年のように行われるやり取り。プロ野球というのは本当に実力があるものだけが足を踏み入れられる領域だと世間一般は思っているだろう。しかし現実はそうとも限らない。どんな密約を交わし、どんな利害関係があるのか知らないが、こうやって実力のない者を入団させようとする人間がいる。宇津木の球団だけなら物笑いの種にでもなるが、これはどの球団でも多かれ少なかれ行われていることなのだ。
「何もドラフト上位で指名しようと言うのではない」
奴は琥珀色の液体を啜りながら宇津木を見る。冷淡な顔だ。
「彼がドラフトに掛かる可能性は?」
「ほぼ、ありません」
「それなら問題はない。彼を指名する方向で動きなさい。いいね」
宇津木はもう何も言わなかった。


-54-


ボーリングの日から、七瀬と平井紗希は毎日のように会っていた。まさかこんな日が来るとは思わなかったが、七瀬は二人が恋人同士であることを認識していた。どちらかが交際を申し込んだわけではない。しかし阿吽の呼吸とでも言うのだろうか、何となく二人は毎日会うようになっている。
「今日は何をしようか?」
平井紗希は商店街で買ったコロッケを頬張りながら楽しそうに七瀬に問いかけた。
こうやって一緒にいて思うのは、彼女も普通の女子高生だということだ。見た目の近寄りがたさや無口さで、崇高なイメージを持たれてはいるが、毎日を一緒に過ごしていると、驚くほどよく話すし、よく笑う。これが自分だけに見せる姿ならこれほど嬉しいことはない。いや、事実そうなのだろうと思う。あの日、彼女の見せた涙が二人の間にあった何かを洗い流してくれたのかもしれないと七瀬は感じていた。

「大学野球?」
七瀬は素っ頓狂な声を上げた。
平井紗希に連れられて、お洒落なカフェレストランに来ていた。彼女は七瀬の知らない世界を簡単に見せてくれる。ファースト・フードかファミリーレストランが関の山だった彼には彼女の世界は新鮮だ。自分の家庭環境を決して卑下はしないが、育ちが良いというのは素晴らしいことだな、と心底思う。
「大学進学するんでしょ?だったら野球部のあるところが良いなって。それなら私もずっと側で応援していられるし」
大変なことをサラッと言う。それは七瀬と同じ大学に行くと言っているのだろうか?
「野球か・・・」
七瀬は呟いた。
高校野球で燃え尽きた気になっていたが、野球はずっとやっていきたいと思っていた。それはプロを目指すとか大それたものではなく、漠然としたものだ。そうか。大学に行けば少なくとも四年間は野球が出来る。その間に自分の身の丈にあった将来設計を立てればいいのかもしれない。
「絶対にまだまだ伸びると思うんだよね。私が見てきた短い時間でも凄く成長したと思うし。だって最後の試合なんてスカウトの人が見に来ていたぐらいだもの。それってどこにでもある話じゃないと思うの」
平井は目を輝かせている。可愛いじゃねえか、この野郎。
「まぁな。俺の才能を持ってすれば、まだまだこんなもんじゃないだろうな」
「うん。本当にそう思うなぁ」
平井が相槌を打つ。あのぅ洒落なんですけども。
「うん?」
その時、七瀬の視界に何か映った。平井が「どうしたの?」と聞きながら七瀬の視線の先を見る。


-55-


男は冷淡な表情の恰幅の良い男を前にしていた。
「何とかなりそうなんですね?」
男は身を乗り出した。
「ああ」
男はそれを聞くと「恩に着ます、先輩」と言って、隣に座る女に目をやった。女は何の話だか全く理解していないようだ。彼女に分かっているのは、今から自分の身に何が起こるか、という現実だけだろう。そしてそういう現実を楽しんでいることも男は知っていた。こいつはこういう女なのだ。
「部屋は取ってあります」
男はホテルの名前と部屋番号が書かれた紙を目の前の男に差し出した。その時、目の前の男は初めて冷淡な表情を崩した。舐めるような目つきで女を見ている。これから先、この女がどんな目に合うかは知らないが、粘着質な要求を恥らいながらも受け入れているだろう姿が脳裏に浮かぶ。下半身が熱くなった。自分も近いうちにまたこの女を頂こう。
「それじゃ自分はこれで」
男が立ち上がろうとした刹那、背後から声がした。驚いて振り返る。
「おう。七瀬に平井じゃないか」
男は狼狽を表情に出さないように努めて冷静な声を発した。二人は不思議そうな目で自分を見ている。視線はテーブルの男女にも注がれる。
「何してるんですか?監督」
平井紗希の声がした。女は怯えた目で男を見る。
「立石?」
七瀬の声が遠く聞こえた。
スポンサーサイト



Posted on 2011/10/13 Thu. 16:09 [edit]

category: WEB小説

tb: 0   cm: 0

-恋バイ⑧-  


恋愛バイアス


-41-


対津山西戦は、9-0で光陰高校の勝利だった。去年までなら決して楽な相手だとは思わなかったが、完勝といってもいい試合運びで危なげなく初戦突破。まずは順当に、二回戦の共栄高校戦を迎えた。
次の対戦相手、共栄高校は去年甲子園を経験しているメンバーが五人もいる。特にピッチャーの長野は甲子園でも豪腕を評価された大会屈指の右腕として名を馳せていた。一方、七瀬ら光陰高校は、酒井の抜けた穴がどうしても低評価に結びつくらしく、下馬評では圧倒的に不利だと予想されている。しかし光陰高校も、ただ手をこまねいていたわけではなく、共栄の柱、長野攻略に心血を注いでいた。長野の長所は、内角を積極的に突く勢いのあるストレートと、抜群のコントロールである。それに対抗するにはベースのギリギリに立って内角攻めを許さないこと。内角が突けないとなると、長野のもう一つの勝負球であるスライダーが活きない。勝負は長野の立ち上がり。外角主体のピッチングに切り替える前に、リズムを狂わせ一気に加点するしかない。打線はトップからラストまで穴はない。丁寧に低目を突いて根気よく投げるしかない。気持ちが切れたほうが先に崩れる。平岡監督曰く「勝負は序盤の三回」

試合は光陰高校の攻撃で幕を開けた。トップバッターは七瀬。俊足を買われたというのもあるが、ここ数ヶ月は打撃の調子がいい。走り打ちは抜けないが、ツボに嵌まれば外野の間を割る打球の鋭さも備わっている。七瀬は左打席、内角ギリギリに立つ。当たるのが怖くないとは言わないが、何としても塁に出る。自分の仕事は塁上をかき回すことだ。球場の空気が変わる。プレイボールだ。

初球は内角高めのストレート。唸りを上げてキャッチャーミットに吸い込まれる。判定はボール。自分の弱点を分かっているのだろう。臆することなく内角を突いてくる。物凄い球威。ただ突ききれるか?二球目も内角へストレート。上体を起こさせてベースから遠ざけようとしている。正直、この内角のストレートが決まったら、七瀬には打てない。内角は捨てる。勝負は外角のストレート。これを思いっきり叩きつけて三遊間へ転がす。あとは共栄の守備と自分の足の勝負だ。
三球目。七瀬は思いっきり右足を踏み込んだ。ボールは高速で回転しながら七瀬の左足へ。スライダーだ。七瀬はもんどりうって倒れる。デッドボール。やった!塁に出た!!

長野の弱点をこれほど露呈した試合はなかった。執拗に内角ギリギリに立つ光陰攻撃陣に、長野は積極的に内角を突くのを止めなかった。しかし球が抜ける。七瀬以降、三者連続で四死球を与えた後、四番の白川を打席に迎えた。塁上は埋まった。押し出せば先制点を与えてしまう。光陰高校、平岡監督は共栄バッテリーの心理を読んでいた。左打席に立った白川へアドバイスが送られる。「内角は全て捨てろ。外角のストレートが来たら強振」
その初球。長野はコントロールを気にしていた。コントロールで勝負する投手ほど、荒れた球が続くことを嫌う。こんなはずじゃないと修正しようとするがそれは腕が振れない、という悪循環に繋がった。白川は外角の中途半端なストレートを一閃。打球は左中間を深々と破った。三点先取。タイムリーツーベース・ヒット。

長野は先取点を奪われた後、急速に立ち直った。このあたりが大会屈指の右腕といわれる所以だろう。崩れはしても試合は壊さない。七瀬も力投を続けていた。この日のストレートのMAXは139キロ。自分でも信じられないが、伸びのあるボールがテンポよく、意図したコースに決まっていた。
しかしさすがは甲子園ベスト4の共栄高校である。簡単に打ち崩せないと見るや、五回あたりからセーフティーバントの構えを見せ、七瀬を揺さぶりはじめた。早打ちを戒め、出来るだけ七瀬に球数を投げさす作戦である。その効果は八回の攻撃から見え出した。三本の長短打で二点を返し、抜け目なく送りバントも絡めてスコアリングポジションにランナーを進めると、すかさずスクイズを敢行。足がもつれる七瀬。しかし打球が死にきっていなかったのが幸いして間一髪、ホームでランナーを殺した。そして試合は九回裏、共栄高校最後の攻撃。

「満塁だって。やばいね」
七瀬はマウンドに集まる選手達に笑顔を振りまいた。
九回裏、一死満塁で打席には四番長野。今日の対戦では三打席で三本のヒットを浴びている。ピッチングだけでなくバッティングにも非凡な才能を見せている。エースで四番。いるんだよな、こういう奴。
「スクイズを警戒して内野は前進守備。強打してきて転がったら近いところで殺しましょう。外野は少し深めに。頭を越されたら終わりです」
白川がグラブで口を隠しながら選手達に伝える。
「よし。ここが踏ん張りどころですよ!」
白川の声に選手達が「おう!!」と掛け声を上げて守備位置につく。七瀬は白川を呼び止めた。怪訝そうな顔で七瀬を見る。
「変化球は駄目だ。情けないけど握力が落ちてる。コントロール出来る自信がない。しかもスクイズで来られたら、俺のカーブじゃミットに届く前にランナーはホームに生還してる」
白川が困惑した表情を見せる。
「ばか。弱音吐いてるわけじゃねえ。ストレートで行く。内角に力一杯投げ込むよ。それを引っ掛けてくれたら俺らの勝ち。捉えられたらボールはスタンドにインだ」
白川は無言で頷くと、ミットを力強く叩いて守備位置に戻っていく。

試合再開が審判から告げられ、七瀬は思いっきり右腕を振った。ボール。次もボール。三球目は内角の際どいコースへ。長野は見送りストライク。カウントはワンツー。バッティングカウントだ。下手にストライクを取りに行ったらやられる。七瀬は右手の中で白球を転がした。ベンチに目をやる。平井沙織が祈るような目でこちらを見ている。平井紗希は・・・表情を変えてない。でも手にしているスコアブックを強く握っているのが見える。七瀬はセットポジションから左足を大きく上げる。「酒井・・・」声にならない声が七瀬の口から洩れた。そして渾身のストレートを長野の胸元へ投げ込んだ。


-42-


強豪共栄高校敗れる、の報は、翌日の地元紙を賑わした。タイムリーを放った白川は超高校級スラッガーと称され、九回165球を投げ切った七瀬は、新星現る、というありがたいようなくすぐったいような見出しで賞賛された。長野目当てにプロのスカウトやマスコミも観戦していた試合での活躍は、宮田校長を大いに喜ばせた。試合前には完全に白旗をあげたような顔をしていただけに、その豹変ぶりは光陰高校野球部を困惑させた。
「やってくれると信じていたよ」
宮田校長は平岡監督の手を握って「甲子園も見えてきたんじゃないか?」と満足げに話していた。
 
平岡は三回戦の先発に、二番手の陣内投手を起用した。二回戦から日は経っていて、七瀬は準備万端だったが、これ以後のスケジュールは勝ち進めば勝ち進むほど厳しくなる。それを考えると七瀬を温存できるのは、ここしかないという判断だった。試合は7-4で光陰が逃げ切った。最終回に三点を失うまで陣内は力投した。覇気が前に出ないピッチングをする、という印象を七瀬は持っていたが、それは間違いだったと知った。自分も成長したが、陣内も成長しているのだ。この試合の好投は平岡監督も嬉しい誤算だったようで、七瀬が崩れても陣内がいる、という継投に計算が立った。プラスはプラスを生むものだ。

初のベスト8進出をかけた四回戦は、スタンドが光陰高校応援団で賑わった。通常、準決勝くらいから学校は総出で応援体制に入るのだが、さすがは野球好きの宮田校長だけあって抜かりはない。と、言うよりもすでに相当興奮している様子だ。応援団の声援もあって四回戦も光陰は難なく勝利し、余勢をかって準々決勝、準決勝を勝ち進んだ。光陰高校初の甲子園出場まで、勝ち星はあと一つ。

「肩はどうだ?」
準決勝戦後、七瀬は平岡監督に声をかけられた。
「大丈夫です。あと一つですから」
七瀬は胸を張った。
「そうか。それならいい」
平岡は七瀬の肩をポンと叩き「明日も頼むぞ」と言ってベンチ裏の通用口から去っていった。
七瀬は平井紗希と入念なアイシングをしてから、選手用のバスに乗り込んだ。バスの中は騒がしいのかな?と思っていたが、全員が泥のように眠っている。
「こんな連戦は初体験だからな」
平岡が七瀬に言う。声は出さず頭だけ下げて自分の席に座った。平井は斜め向こうの座席に座る。

七瀬はぼんやりと平井の後頭部を眺めた。彼女が野球部に来てからというもの様々なことがあった。翔子の死、酒井の死。悲しい出来事はあったけれど、それが自分を成長させたのかな、と思う。人の死を糧になんて縁起でもないが、あの出来事を乗り越えられなかったら今の自分はないだろう。そしてその全ての場面に彼女はいた。「甲子園、行こうよ」と彼女は言った。酒井と同じセリフだった。あと一つだ。あと一つ勝てば、夢にも思わなかった甲子園に行ける。あと一つ・・・七瀬はそのまま眠りに落ちた。


-43-


スタジオ練習が終わって、矢野がロビーでメンバーと談笑していると、立石留美が現れた。立石は竹上さんと付き合っている。以前、平井沙織を紹介すると竹上さんに豪語したが、結局果たせず、その代わり、と言ってはなんだが、立石を会わせた。二人はすぐに意気投合したらしく交際を始めた。それから竹上さんは立石を練習に呼ぶようになった。「やっぱ素人の意見も必要だからよ」と、竹上さんは言うが、結局は彼女の前で格好いいところを見せたいだけなのだと思う。素人の意見ならライブ後のアンケートでも聞けるのだ。
「竹上は残業で今日は来れないって連絡あったけど。聞いてなかった?」
ボーカルの瀬古さんが立石に告げる。彼女は聞いてないです、としおらしく言ってみせた。
胸元が大きく開いたTシャツに、屈めば、見て下さい、と言わんばかりのミニスカートを履いている。抜群のプロポーションとは言えないが、肉感的で男好きのする顔立ちをしている。本人も分かっているのだろうか、いつも男に媚びた態度を取っている。ぶりっ子ってやつだ。
「じゃー俺、そろそろ失礼します」
矢野は残っていた缶コーヒーを飲み干すと席を立った。
「今日は早えな」
ドラムの桐生さんが、まだいいじゃないかよ、という顔つきで不満そうに言った。
「明日、早いんすよ」
矢野が面倒くさそうに言い訳をした。勿論、桐生の態度にではなく、明日早いことが面倒だという風に。
「そういや、決勝まで勝ち残ってるんだって?」
瀬古さんが煙草をもみ消しながら聞いてくる。
「そうなんすよ。何をどう間違ったか勝ち進んじゃいまして。うちの校長は大の野球好きですからね。応援に行かないと後で大目玉を食らっちまう」
矢野はおどけた。
「それなら留美ちゃんも明日早いんじゃないの?おまえ送っていってやれよ」
桐生さんがいやらしそうな目つきで立石を見る。視線に意味を含ませているのではなく、この人は女を見る目が基本的にこうだ。
「あ、私は一人で帰れます」
立石が慌てて言う。でも本当に断っているようには見えない。あくまでポーズというやつだ。矢野は学校では見せない立石のこういう態度にはいつも不快感を覚える。優等生の学級委員長、率先してクラスをまとめる出来る女子というイメージはここでは全く見せない。
「何だよ。女の子を夜道に一人で放り出す気か?もし嫌なら俺が送っていってもいいけどよ」
桐生さんが下種な笑みを浮かべる。立石はまんざらでもなさそうに頬を赤らめてうつむいている。こいつらいい加減にしろよ。
「分かりましたよ。俺が送ります。行こうぜ、立石」
矢野は立石を促した。目の前で浮気なんかされたらたまったものではない。もし出来ちまったら竹上さんになんて言い訳したらいいんだよ。
「お疲れっす」
矢野は瀬古さんにだけ、と見えても仕方ないくらい桐生を無視した態度で、立石を連れてスタジオを後にした。


-44-


彼の心臓は早鐘を打っていた。人気のない路地。目の前には怯えた目の少年が足を震わせている。
「言うこと聞けば痛い目にあわしゃしねえよ」
彼は声が震えたのではないか?と思った。しかしそれを悟られまいと更に強く出る。
「聞いてんのかよ?」
少年の胸倉を掴み、肘で下あごをニ・三度小突く。少年は息苦しさと恐怖で目の焦点が合っていない。
「しっかりやれば二度と現れねぇ。いいな?」


-45-


矢野と立石は深夜の公園にいた。帰り道の途中、立石が気分が悪いと言ってその場に座り込んでしまったからだ。
「大丈夫かよ?」
矢野は立石に自動販売機で買ってきたお茶を渡す。ありがとう、と言って彼女はお茶を受け取ったが口にしようとしない。
めんどくせぇな・・・矢野は心底思った。大体、女ってやつは何でこんなにも足が遅いのか。普段の歩く速度の三分の一にも満たない歩行スピードを強いられ、無言が何よりも苦手な矢野はひとしきり立石に話しかけた。すると立石は気を良くしたのか、帰る道すがら「この店のケーキは美味しいんだよ」とか「ここの文房具屋さんのおばさんは愛想が悪いの」とか、自分から話題を振るたびに足を止める。しかも最後には気分が悪いときた。矢野は自らのお喋りを呪った。
「家に電話して迎えに来てもらおうか?」
矢野は提案してみた。このまま無為に時間を過ごすより余程いい。
「もうちょっと。もうちょっとで立てるから」
立石は提案を断った。
矢野は特にすることもないので隣に座り、何となく立石を見た。身を屈めた彼女の胸元は矢野の位置からよく見える。いけない、とは思いながらも目が離せなくなった。女を抱いたのはいつだっけ?矢野の頭の中に昔付き合っていた彼女の顔がよぎった。立石ほどじゃないけれど豊満な身体の持ち主で、年上ということもあったのか彼女に溺れた。七瀬や白川が白球を追いかけている間、俺は女の尻を追い回していたわけだ。
矢野は自嘲した。人より性欲が強いとは思わないが、女を見るとたまらなくなる時がある。SEXを体験していない時にはなかった衝動だった。一度、味をしめてしまえば病み付きになる、と桐生さんが言っていたが、本当だった。しかも相手は桐生さんの友達だった。「良かったかよ?」と聞かれた。自分が足を踏み入れてはいけない世界を知ってしまった気持ちになった。抜け出したい、とも思った。だが矢野は女の肌の虜になった。

突然の別れを切り出されたのは、逢瀬に浸りきっていた時期だった。矢野は泣いた。泣いて別れたくない、と女にすがった。しかし女はそういう矢野を心から軽蔑し、最後には桐生さんを通じて矢野に最後通牒を行った。目の前が真っ暗になった。あの時の桐生さんの目。桐生さんの口から発せられた痛烈な別れの言葉。矢野は自分が弄ばれていた事を知った。わずかながらにあった貯金も気が付けば底をついていた。親の財布にも手をつけた。友人にも金を借りた。そんな毎日も彼には喜びだった。ひたすら彼女に会いたかった。彼女に会えるなら何だってやってやる、と思っていた。
 
桐生さんと距離を置くようになったのはそれからだ。自分の情けなさを彼のせいにするつもりは毛頭なかったが、どうしても心を開くことが出来なくなった。そんな時に、竹上さんがバンドに加入した。真っ直ぐな人だった。最年少の自分を誰よりも気にかけてくれた後輩思いの優しい先輩だ。瀬古さんや桐生さんとバンドをやらなくなる時が来ても、竹上さんとはずっと一緒に音を出していたい。
視線を感じた。立石が上目遣いでこちらを見ている。思考が止まった。唇が濡れている。気が付くと彼女の手が自分の膝に置かれていた。熱い・・・矢野の咽喉が鳴った。

Posted on 2011/10/12 Wed. 15:43 [edit]

category: WEB小説

tb: 0   cm: 0

-恋バイ⑦-  


恋愛バイアス


-36-


日曜日の午後、七瀬は佐藤警部補と渡辺刑事の訪問をうけた。先日の事情聴取の時、七瀬も平井も、酒井に対して行われた嫌がらせ行為については黙っていた。自分からペラペラと話す必要があるのか判断できなかったし、自分達が話さなくても酒井の両親が話すだろうと思った。それからもう一つ、彼を躊躇させたのは、もしかすると酒井が翔子の殺害事件に何らかの関与をしていたのでは?という疑問が頭をよぎったからだ。

七瀬は酒井に対して嫌がらせをしていたのは翔子だと思っている。酒井のマンションの側で見つけた赤いルージュの付着した煙草。大量のツバ。そしてあの日に聞いた明らかに堅気ではない人間が乗るであろう車のエンジン音。翔子と公園で会ったときに見たあの車のエンジン音に似ている気がする。

真っ先に頭に浮かんだのは恐喝という文字だった。酒井の家は見ての通り裕福だ。本人もプロ野球へと続く将来を嘱望された人間である。こいつに関わりを持っていれば金になる。翔子が短絡的にそう考えた可能性はある。翔子が思わなくても周りが思うかもしれない。翔子は嫌がらせを繰り返し、酒井家を精神的にまいらせた上で恐喝に及んだのではないか?嫌がらせを止めたのは、七瀬の存在を知ったからだ。
 
酒井の告白から、しばらくの期間七瀬は酒井と下校を共にした。その間には何も起こらなかった。翔子は自分に気を使ったのだろか?とも考えた。しかし翔子はともかく周りの連中が納まるはずがない。ならばどうして?と、考えた時に、あることが頭に浮かんだ。恐喝のネタがなかったのかもしれない、と。とりあえず嫌がらせを始めたはいいが、酒井のどこを叩いても埃が出なかった。しかも七瀬の登場である。だから一旦手を引いた?だが、何らかの理由で恐喝は実行に移された。ネタなんてどうでもいい、やってしまえ!!これくらいの思考回路で後先考えずにやったのか?やりかねないと思う。それとも何か恐喝のネタを掴んだ?
 
翔子の死は仲間内の争いが原因だと報道していた。七瀬は違うと考える。翔子を殺したのは酒井幸一。そして酒井を殺したのは、翔子の仲間。身内を殺された報復だ。こう考えれば辻褄があうと思う。
「翔子は酒井によって殺され、酒井は翔子の仲間に報復された」
これだけの文章にしてしまえば何て事のないことだが、充分ありえるのではないか?でもどうだ?翔子の恐喝まではリアリティーがあると思う。でもあの酒井が人を殺すか?

くだらない・・・七瀬は苦笑した。元恋人を悪人に仕立て、友達を殺人犯扱いしてどうする?自分がここでこうやって思案をしている間にも、事件の捜査は着々と進んでいるだろう。犯人探しは警察の役目だ。自分の役目じゃない。それならば今、自分が出来ることは知っていることを全て話すことだ。

翔子と最後に会った夜、翔子は酒井に興味を持っていたこと。
翔子とその仲間らしき人物が、酒井のマンションの周辺にいたらしきこと。
酒井が度重なる嫌がらせを受けていたこと。
そして翔子の死の直前から、翔子らの嫌がらせはなくなっていたこと。

佐藤警部補は人懐っこい顔をさらに柔和に崩して七瀬の話を聞いていた。隣の若い刑事も同じく温和な顔つきをしている。佐藤は七瀬の父親と同年代に見えるので、五十前後。頭髪はやや薄くなっているものの、父に比べれば全然問題ではない。七瀬の父親は子供の自分から見ても哀れに思うくらいのバーコード・ヘアーで、毎朝クシで髪を右から左へ撫で付けている。禿げているのはバレバレなのだから、いっそ坊主にでもしたらどうか?とも思うが、会社とはそれを許す環境にないようだ。大人って本当に面倒だと思う。しかも毛髪が薄くなる最大の原因は遺伝だと聞いたことがある。本当に暗くなる話だ。若い刑事は二十代後半といったところか。取り立てて特徴がないのが特徴というか。人のいい刑事さんといった感じで、お巡りさんと言われたほうがピンとくる。

佐藤と渡辺があまりに聞き上手なので、七瀬は先ほどまで考えていたことを話してみた。必要以上のことかもしれないと思ったが、昨日隠し事をしたという罪悪感も手伝って口が滑らかになってしまった。
「面白い推理だね」
佐藤は決して馬鹿にした様子ではなかったが、それを肯定もしなかった。そして「ところで・・・」と言うと七瀬に今日始めての質問を投げかけた。
「会津翔子さんについて聞きたいことがあってね」
翔子のこと?自分は全部話したつもりだが。
「会津翔子さんは大変お金に困っていたそうだね。まぁこんなことを君の耳に入れても仕方ないんだが、随分と無茶なことをしていたらしい。でも不思議なことがあってね。いつも金に困っていたはずの翔子さんは、たまにどこからか手品でもするみたいに金を手に入れてきた。仲間内にもその資金源、と言っていいのかな?それはなかなか明かさなかったらしいけども。それでね、翔子さんの財布を調べたらレシートが見つかってね。ほら」
佐藤はレシートのコピーを七瀬に見せた。焼肉屋のレシートだ。金一万八千円。
「翔子さん、仲間にご馳走したそうだ。いつもお金に困っていた翔子さんが突然ね。それでおじさん調べてみたら、そのご馳走になった一人が、翔子さんの手品のタネを教えてくれてね」
驚いた。そんなことまで知ってるのか。でもそれを知ってどうなるというのだろう。
「僕です・・・」
七瀬は自分が翔子に金を渡していたことを認めた。
「そうなると我々は君のことまで疑わなくてはならなくなるんだ」
佐藤は笑った。
あ、と声が出た。そうか、自分も周りから見れば恐喝されていたと映るのだ。そうなると自分にも翔子を殺す動機があることになる。絶句した。
「勿論、君を疑うほど我々も愚かではないよ。ただこう言っちゃなんだが、翔子さんを恨んでいた人間というのは調べてもキリがないくらいでね。今の君の話で酒井君が強烈な嫌がらせを受けていたのは分かった。だがそうなると酒井君どころか君まで犯人の範疇に入ってしまう。分かるかい?」
七瀬は黙ってしまった。自分は浅はかな知恵で捜査のプロに推理をぶちまけていたという事か。元恋人と親友を犯罪者のように扱ってまで・・・俺は翔子と酒井の死が悲しくないとでもいうのか・・・

「もうすぐ夏の予選が始まるみたいだね」
重い沈黙を破るように、佐藤が急に話題を変えた。
「おじさんこう見えて学生の頃は野球をしていてね。今も暇があれば野球観戦をしてるよ。特に夏の高校野球は大好きでね。おじさんは補欠だったから試合には出られなかったけど、今でも青春の一ページとして鮮明に覚えているよ」
「はぁ・・・」
七瀬はどう答えていいか分からなかったので、軽く相槌だけうった。
「学生の本分は学業だと言うが、実際はそれだけじゃない。学校で学べないことなんて何一つないからね。その中で今、君がやらなければいけないこと。それにしっかり向き合うことが一番大切なことだよ」
佐藤はそう言うと手元のお茶に手を伸ばし「少しオヤジの小言が過ぎたかな」と、照れくさそうに笑った。


-37-


男は女を陵辱していた。
こいつのせいで・・・こいつのせいで・・・俺は・・・
今まで思い通りになってきた。
今まで好きにやってこれた。
なのに・・・
こいつめ!こいつめ!!
男は女の髪を鷲掴みしたまま果てた。


-38-


野球部の練習は再開されていた。ようやくチームは落ち着きを取り戻した、とも言えるし、まだどこか以前の元気がないようにも見える。キャプテンの安藤が率先して声を出しているのが目に付く。やはりチームをまとめなければいけないという自覚が働くのだろう。普段はチャラチャラしているようでも、こういう時には頼りになる奴なのだ。少し見直した。
平井沙織は練習に出てきていない。無理もない、と思う。あの日の彼女は見てられなかった。だからと言ってこの状態が続いていいか?と、問われたら違う気がする。だが七瀬も人のことは言えない日常を送っていた。ずっと続けていた朝のロードワークを止めていた。

酒井の死を知ってから日が経つにつれて、七瀬の気力は萎えていった。自分の置かれている立場は分かっているつもりだ。酒井亡き後、俺がエースとしてマウンドに登らなければいけない。頭では分かる。でも・・・俺は・・・それでいいのか?

平井紗希は変わらず練習に出てきていて、部員達の世話で忙しく働いていた。酒井の死は妹同様、彼女にショックを与えたはずだったが、そんな素振りは微塵も見せない。七瀬がしばらくロードワークを休みたい、と言うと黙って頷いた。何も言わなかった。彼女の気丈さが七瀬の気力を余計に奪っていく気がした。自分と彼女の人間の大きさの違いに圧倒的な虚無感を覚えた。せっかく近づいた平井との距離が一気に遠くなった気がする。だが平井だって辛いのではないか?と思う。好きな相手が無残にも殺されたのだ。表情にも行動にも表わさないが、辛くないはずがない。しかもあの河川敷が遺体発見現場なのだ。気持ちよくロードワークになど出れるはずがない。自分の無気力を他人になすりつけるつもりはないが、そういう配慮も自分の中にはあるように思う。
練習にも全く身が入らなかった。だがそういう七瀬を見ても誰も声を掛けてこなかった。監督の平岡でさえ近頃は顔色が悪い。まだ誰も立ち直ってはいないのだ。立ち直れと言うほうが無理なのだ。

朝六時に目が覚めた。まいったな、と思う。習慣というやつは恐ろしい。目覚ましをかけていないのに、この時間になると必ず一度目が覚める。七瀬はベッドから起き上がるとカーテンを開けた。今日も快晴のようだ。空には雲ひとつない。
散歩にでも行くか・・・そんな気になった。今のままの自分じゃいけないことは分かってる。だが、気持ちは晴れてくれない。悔しさなのか悲しさなのかも分からない。

いつものロードワークなら自転車で行くのだが、今日は散歩という意識があるので徒歩にした。日曜日だから登校時間を気にする必要もない。
歩きながら思考が色んな事柄に飛ぶ。酒井のこと。翔子のこと。平井のこと。チームのこと。浮かんでは消え、考えようとする回路が作動すると、強引にスイッチを切った。

階段から土手に上がり、河川敷に出る。酒井と翔子が発見された現場は、ここからほんの数キロ先だ。七瀬は現場から遠ざかるように反対方向に歩みを進めた。人影はまばらだ。普段ならもう少し人がいるはずなのに。そこまで考えて、そうか、と思った。ここは遺体が見つかった場所に程近い。そんな場所にほとぼりが冷めもしない時期に来るだろうか?答えはNOだ。俺だってここに来るのに丸々一週間かかってる。人が殺されるというのは非日常なのだと当たり前のことだが実感する。

河川敷グランドが見えてきた。子供達の声が聞こえる。グランドが見えるベンチに腰掛けた。今日は少年野球チームが河川敷グランドを使用しているようだ。身体も小さいし、声も幼いが、元気だけは高校球児に負けていない。その時、背後に気配を感じた。視界の隅に缶ジュースが映る。
「ファンタ?」
振り向くと、そこには朝日を背中に浴びた平井紗希が立っていた。
「好きでしょ?ファンタ」
平井が七瀬の隣に座る。平井はジャージを着ていた。ロードワークの出で立ちをしている。
「休みだって言ってなかったっけ?」
七瀬は言葉を選んだ。いったいここで何をしているんだ?
「最近、七瀬さんのペースが上がってきてたから、自転車で追いつくのが大変だったの。だから自主練」
彼女はそう言って七瀬の方を向くと、首に掛けていたスポーツタオルを差し出した。「M・N」という文字の刺繍が入っている。

長い沈黙の後、七瀬は思い切って切り出した。
「これ・・・あのさ、平井は・・・酒井と付き合ってたんだろ?それなのに何でそんなに平気そうにしてんだよ。何で俺にこんなのくれんだよ」
平井は驚いたような顔をした。表情の変化が少ないだけにやけに目立つ。
「矢野さん情報?それ?」
「ああ、でも・・・」
少しの沈黙の後、平井が突然話題を変えた。
「七瀬さん、どうしてファンタが好きなの?」
「何でって・・・炭酸が強いし喉ごしがいいだろ」
「コーラじゃ駄目?」
「いや、コーラでもいいんだけど、俺が聞いた噂によるとコーラにはコカインが入ってるらしくてさ」
「コカイン?」
「うん。コーラにはコカインが入ってる。だからコカ・コーラっていう名前が付いてんだって・・・でもって挙句には骨が溶けるって」
平井が吹き出した。
「それも矢野さん情報?」
「ま、まぁね」
彼女は可笑しくて堪らない、といった表情で「ちょっと待ってて」と言った後、土手の上に駆け足で上がって行った。戻ってきた平井の胸にはグローブが二つ抱かれていた。一つは七瀬の使い古したボロボロのグローブ。もう一つは真新しい。新品のようだ。
「駄目だよ。道具は大切にしなきゃ」
平井はそう言って七瀬の膝にグローブを乗せる。どうやら七瀬は昨日の練習でグローブを忘れて帰ったらしい。こんなこと初めてだ。
「このグローブは?」
七瀬は膝元の新品のグローブを見て言った。平井はすでに七瀬の側を離れて十メートルほど先まで後ろ足で移動している。左手には七瀬のグローブ。
「買ったの。大会前に新しいのにしたらどうかって思って。もうボロボロでしょ?」
「俺に?」
「うん。今日、誕生日でしょう?バースデープレゼント」
そういえばそうだ。今日は七瀬の誕生日だった。すっかり忘れていた。

手元のグローブを取って、ゆっくりと左手に嵌めてみた。買ったばかりのグローブは使いにくいが、今の時期から使えば予選が始まる頃には慣れているだろう。それに思ったよりも手に馴染む。
ボールがゆっくりとした弧を描きながら七瀬の胸元へ投げ込まれた。七瀬は慎重にキャッチする。絶対に落としてはいけない気がした。同じように投げ返す。ゆっくりと。平井の描いたのより大きい弧を描いて。
無言のキャッチボール。でもこんなに心地良いキャッチボールを経験したことがあったろうか。
「私はコーラのほうが好きだったの、昔はね」
平井の投げたボールが少し高く逸れる。七瀬はジャンプして掴むと「昔?」と聞き返しながらボールを平井へ。七瀬の送球は少し低い。しかし彼女は上手く捕球し「今はファンタのほうが好き」と、七瀬の胸元へ返球する。ボールは直線の軌道を描き、七瀬の胸元に構えられたグローブへ。
「好きになったのは最近なんだけどね」
平井はそう言って微笑んだ。


-39-


「こ、これは?」
七瀬は驚愕した。目の前にあるのは・・・いや、そびえると言ってもいいだろう豪邸に棒立ちになった。資産家とは聞いていたが、これほどまでとは想像もしていなかった。こんなのテレビでしか見たことない。和洋折衷なデザインだが全く破綻してない、と思う。よく分からないが、とにかく圧倒される。
「入って」
平井紗希は平気な顔をして七瀬を促す。中に入ると七瀬の部屋が四つは入るだろう玄関。そして目の前に広がるロビー。それとも応接間か。何といえばいいか分からないが、馬鹿でかい洋式の広間に通された。
「沙織。呼んでくるね」
平井はそう言うと、広間から伸びている、これまた横幅の広い階段を上り始めた。おーい、一人にしないでくれー、と咽喉まで出かかったが、辛うじて堪えた。

とりあえずソファーに座ってみる。身体が三分の一は沈みそうな弾力。とてもじゃないが落ち着かない。しばらくすると平井紗希が、妹の沙織を伴って階段を下りてきた。平井沙織はTシャツにジーンズといった軽装だった。何となく落ち着く服装だ。思ってたよりも顔色はいい・・・気がする。
「よう。元気か?」
七瀬は努めて明るく沙織に話しかけた。紗希は「飲み物、持ってくるね」と言うと広間の奥へ消える。沙織は何も言わず七瀬の向かいのソファーに腰掛けた。
「いやぁ・・・すげー家に住んでんなぁ・・・ちょっとびびるよ」
沙織は無言だ。だが七瀬は構わず話を続ける。
「お嬢様なんだな、平井は。ははは、参った参った。あ、そうだ。練習さ、いつから出てくる?みんなも色々と大変だったけど随分落ち着いたぞ。あとは平井が戻ってきたら元通りなんだけどなぁ」
強い視線を感じた。沙織が七瀬を睨んでいる。
「元通りなわけないじゃないですか・・・」
やっぱりそこが引っかかるか・・・七瀬は気にも留めない表情を固めた。こういうリアクションは想定済みだ。俺だって誰かがこんな感じで自分を引き戻そうとしたら頭にくる。でも他に方法が思いつかないし、現実に酒井はいない。
「甲子園行きてぇなぁ」
独り言のように呟いてみる。すると沙織は失笑するような笑みを浮かべた。
「あれ?無理だと思ってんの?」
七瀬は意外なものを見るような顔で沙織を見た。実際は意外でもなんでもないけれど。
「行けると思ってるんですか?酒井さんいないんですよ?」
七瀬は黙った。
「元々、酒井さんがいたからこそ見れた夢ですよ・・・それに・・・」
沙織はまだ何か言いたそうだが、無理やり口をつぐんだ。自分が何を言ってるのかは理解しているのだろう。ただやりきれない思いが彼女を押し潰そうとしている。誰もこのままでいいとは思っていない。七瀬だって沙織だって。だけどどうしようもない悲しみや悔しさ、そして怒りが自分達を前に進ませようとしない。過去を過去に変えられないのが被害者、そしてその家族や仲間なのだから。

「今は酒井がみんなに見せた夢に変わったよ」
長い沈黙の後、七瀬は沙織の顔を全く見ないで切り出した。そうしないと心が折れる。
「酒井はもういない。これは事実。だけど俺らのチームに酒井がいたことも事実だろ。酒井の見せた夢に魅せられた人間はまだ残ってる。チーム全員がそうだと思う。だから酒井の夢は俺らが引き継ぐ。あいつの代わりに俺がマウンドに立って、チームを甲子園に連れて行ってやる。これは酒井のためでもおまえのためでもない。俺のためだ」
沙織は何も言わない。
「甲子園にもし行けなかった時は部を辞めればいい。いや、行けたとしても辞めたければ辞めろ。ただ酒井と俺らが目指した今年の夏は最後まで付き合ってくれないか?」
紗希が飲み物を持って戻ってきた。グラスをゆっくりと置く。時間が止まって感じる。
「私は付き合うよ」
紗希はグラスを全て置き終ると、ソファーに身を沈めながら言った。そして沙織の肩に手を添えると静かに微笑んだ。
「あたしは・・・」
沙織は濡れた表情で姉を見る。
「甲子園、行こうよ」
紗希は妹を、そして七瀬を見て力強く言った。


-40-


夏の予選は全六回戦。トーナメント方式で争われる。光陰高校は前年に引き続き、圧倒的なくじ運の悪さをキャプテン安藤が引き継いだ。初戦は津山西高校と無難な相手だったが、二回戦は前年の府大会優勝校で夏の甲子園大会ベスト4共栄高校に決まった。去年の雪辱を晴らせるか?
くじ引き後、チーム全員のリアクションは様々だが、暗く重苦しい空気は一掃されていた。誰かが何かを言って士気を鼓舞したわけではないが、いつの間にか全員の意思は統一されていた。「目指せ、甲子園!!」というスローガンも部室に貼った。誰も負けても仕方ないとは思っていないのが伝わってくる。平井沙織も練習に参加している。以前と同じ、とは言わないが、徐々に明るさを取り戻しているように見える。

朝のロードワークが終わり、いつもの休憩地点で平井紗希とファンタを飲んでいると、白川が平井沙織に連れられて走ってくるのが見えた。白川は正真正銘走るのが苦手だ。
「へー燃えてるね」
七瀬はぜーぜーと肩で息をする白川に話しかける。白川は今はほっといてくれ、と言わんばかりに手を左右に振った。
「ちょっとウエイトを落とした方がいいんですよ。白川さんは」
平井沙織が、姉の座るベンチに腰掛けた。
「何だ、燃やしてんのは脂肪かよ」
七瀬は笑う。

それから四人で軽く柔軟をした。明日から始まる夏の予選を前にして全員の気持ちが高ぶってきているのが分かる。けれどそれはあえて口にしないでいた。
そろそろ通勤時間だろうか、自転車やバイクに跨った人々が河川敷沿いの道路を次々と駆け抜けていく。夏は始まったばかりだが、もう夏本番の陽気に辺りは包まれている。セミの声がうるさい。
「いいなぁ・・・バイク」
白川が羨ましそうに言う。彼はこう見えてバイクが趣味である。校則で免許を取得することは許されていない。高校を出たら真っ先に教習所に通うらしい。
「あれ?」
白川が通り過ぎようとしたバイクを見て声を上げた。
「何?」
七瀬が白川の視線の先に目をやる。
「あれ立石さんじゃないです?」
白川が七瀬に分かるように、高速で移動中のバイクを指差した。中型のバイクの後ろに女の子が乗っている。クラスメイトの立石留美だ。運転しているのは柄の悪そうなスキンヘッドの男。
「彼氏でしょうか?」
「さぁ?」
七瀬は興味がないので軽く受け流した。今時の女子高生がどんな男と付き合おうが驚かない。以前、矢野から四十過ぎのガテン系と付き合ってる女生徒の話を聞いてひっくり返ったことはあるが。ましてや立石だろ?それなりにモテるでしょ?七瀬は寝転がった。会話は途切れ柔軟が再開される。そして、絶える間際、セミの声。

Posted on 2011/10/10 Mon. 22:33 [edit]

category: WEB小説

tb: 0   cm: 0

-恋バイ⑥-  


恋愛バイアス


-27-


「お見舞いに行きたいんです。連れて行ってもらえませんか?」
平井沙織が思いつめた表情で七瀬に話しかけてきたのは、いつものように混雑した食堂だった。
「酒井のかい?」
白川が七瀬より先に応える。
「そうです。もう三日も学校休んでるんですよ?私、心配で心配で」
平井沙織は本当に心配そうな顔をしている。

矢野の情報によると、この平井沙織も酒井の信者だそうだ。そんなことは言われなくても見ていれば分かったが、酒井の後をつけるまでとなると相当熱烈な信者と想像できる。酒井と七瀬のロードワークにも付き合っていて、ストレッチをする時は必ず酒井の側にいた。そして「ご苦労様です」と、例の「S・H」の刺繍が入ったスポーツタオルを酒井に渡す。七瀬だって汗はたっぷり流れているのだが、彼女の視界には入ってないらしい。   

「S・H」のスポーツタオルは、平井沙織が酒井に渡したものだったのか、とその時はそう思って胸を撫で下ろしたのだが、すぐに考えを修正した。平井紗希の趣味は裁縫だ。この刺繍は平井紗希が縫った可能性もある。
マネージャーの仕事の一つに、痛んだボールを糸で補修するという作業があるが、平井紗希はいつもそつなくこなしていた。さすが裁縫が趣味というだけあるな、と感心して見ていたが、妹の沙織はこの作業が苦手らしく、悪戦苦闘していた。以上を加味すると、姉が酒井に渡した可能性が高い。だがここで待てよ、という気持ちになる。平井沙織は入学前から酒井と親しかったようだ。となると妹の可能性も捨てがたい。妹に頼まれた姉が・・・みたいな。むろん願望も込められているけれど。

「今日、練習お休みじゃないですか。お願いだから連れて行ってください」
平井沙織が大げさに頭を下げた。ほぼ直角に。
気持ちのいい子だよな、と七瀬は思う。ここまで自分の感情をストレートに出されたら見ていて爽快だ。ほんと自分とは大違い。
「まぁいいけど」
七瀬は気のない素振りで言った。
「本当ですか!?ありがとうございます!!」
平井沙織の顔が劇的に明るくなる。彼女の必殺技だ。
「ただし・・・」
七瀬はおもむろに付け加える。
「帰りが遅くなったら夜道が心配だから、お姉ちゃんにも付き合ってもらえ。これが条件」
いささか姑息な手段だが、俺にしては積極的な発言だった、と自分では思う。好きな人とは出来る限り一緒に時間を過ごしたい。恋をすれば男も女も思うことは同じなのだ。


-28-


酒井の見舞いは、七瀬・白川・矢野・平井姉妹の五人で行くことになった。手ぶらで行くのは失礼だろうということで、みんなで金を出し合ってフルーツを買った。
酒井のマンションに着くと、以前七瀬が感じた通りのリアクションを白川と矢野が示した。
「ブルジョワだぜ。ブルジョワ」
と矢野ははしゃぎ、白川は途端に無口になった。一方、平井沙織は姉の紗希と同じような感じで、こんなもの見慣れている、といった様子だった。
エレベーターに乗ると、何故か緊張した。そういやこのエレベーターって、酒井が乗ると各階に止まるとか言ってたっけ。今から思い出しても不愉快な出来事だったが、事なきを得たのは良かったと思う、しかし世の中には、つまんないことをする奴がいるもんだ。

七瀬の緊張をよそにエレベーターは何事もなく十階に昇り着いた。酒井の部屋の前まで行く途中、香水のきつい中年の女性とすれ違った。不審そうな目、とまではいかないが、訝しそうな表情で七瀬達五人を見る。
「こんにちわ」
平井紗希が中年の女性に挨拶をした。七瀬ら四人も倣って挨拶をする。女性は「こんにちわ」と挨拶を返してきた。表情に笑みが浮かんでいる。何だ、話してみれば感じのいいおばさんじゃないか、と七瀬は思った。

酒井の部屋のインターフォンを平井紗希が押した。何をするにも率先してやるんだな、と七瀬は感心した。
しばらく経っても反応がないので、もう一度インターフォンを押す。だが応答はない。
「病院にでも行ってるんじゃねーの?」
矢野が言う。
「かもですね。でもどうしましょう?」
白川が七瀬を見る。
すると、先ほどの中年の女性が「酒井さんならいないと思うわよ」と話しかけてきた。
「お出かけですか」
七瀬が応える。
「そうねぇ。お出かけというか。あなたたち、幸一君のお友達?」
「はい」
「それなら教えてあげるわ。酒井さんね。ニ、三日前に引っ越されたのよ。とても急だったから驚いたけど」
「引越し?」
七瀬は素っ頓狂な声を上げてしまった。
「どこに引っ越されたんですか?」
間髪入れず、平井沙織が聞き返す。
「さぁ?それとなく聞いてみたんだけど教えてくれなかったわね。とても慌しい様子だったわ。荷物もまだまとめてないんじゃないかしら。後日ご挨拶に伺いますとは奥さんが仰ってたけど」
女性は不満を漏らした。


-29-


動けない物体が喘いだ。な、なんで・・・こんな・・・こと・・・を・・・
目の前に錆びた鋏が映る。
「た、助けて・・・」
鋏が左右に振られ、視界が歪む。絶望が濡れていることを初めて知る。


-30-


西川老人は、今日も愛犬のジョンと一緒に日課を楽しんでいた。毎朝五時きっかりに起き、ジョンを河川敷に連れ出す。ジョンもその時間には主人を待っていて、嬉しそうに尻尾を振っている。独り身の西川老人にとってジョンは掛け替えのない家族であった。

そういえばつい最近、この河川敷で西川老人にとって不快な出来事があった。うら若き少女が何者かに殺害され、この河川敷に投げ捨てられていたという。その少女は札付きのワルだそうで、仲間内の揉め事に巻き込まれたとワイドショーで報じていたが、西川老人にとって不快なのは、その少女が愛犬ションとの憩いの場に遺棄されていたことだった。今時の若い者がどうなろうが知ったことではないと西川老人は考えていた。だいたいに今の若い奴らは敬老の精神が欠片もない。まるで今の世界は、この瞬間に突然出来たとでも思っているかのようだ。祖先の血と汗と涙で作られた世界だということを考えもしないのだろう。自由と叫べば何でも通ると思っている。その点、犬はいい。主人に忠実で、自分だけがジョンにとっての世界なのだ、と身体全体で表現してくれる。ジョンが堪らなく愛おしい。叶うことなら世界が自分とジョンの二人だけの世界になればいいとさえ思う。

ジョンが突然吠え、思考は遮られた。
「どうしたんだ?」
西川老人はジョンの頭に手をやったが、ジョンはその刹那猛然と川沿いの深い茂みに向かって走り出した。西川老人は驚いて後を追うが、足が上手く前に動いてくれない。
「ジョン!ジョン!!」
ジョンは茂みの前で呻いていた。何かを見つけたようで、低い唸り声を上げ続けている。
西川老人は背筋に寒いものを感じた。何かとんでもないものを前にしていることを直感的に悟った。この匂いは・・・私は知っている。この匂いを。死臭だ。戦地で幾度となく嗅いだ。当時の記憶が鮮明に浮かび上がる。

ジョンは茂みを見つめている。もう彼もそこに何があるのか分かっているのだろう。西川老人は茂みに近づいた。距離を詰めれば詰めるほど臭気が強くなっていく。吐きそうだった。いやだ、もうこの匂いは嗅ぎたくない。視界が揺れる。足が震えるなどもう何年振りだろう。身体は拒絶していたのだと思う。しかし西川老人の好奇心がそれに勝った。そして恐る恐る茂みの中を覗き込んだ。彼は悲鳴を上げた。全身の毛が総毛立つ。

死体だった。

猫、犬、何体あるのか分からないほどバラバラに切断されていた。そして人間。そこに散らばっていたのは犬猫に混じってバラバラに切断され、放置された人間の残骸だった。


-31-


陽が落ち始めていた。明日は練習試合ということで、早めに全体練習は打ち切られた。明日の先発はお前だ、と七瀬は平岡から告げられていた。見舞いの日の翌日も、酒井は学校に姿を現していない。
「酒井のことなんですが・・・」
七瀬は監督に尋ねてみた。しかし平岡も詳しい事情は分からないという。家庭の事情でしばらく休ませてほしい、としか聞いていないという。

練習後のロードワークに出ようと、グランドから体育館に抜ける通路に向かって歩いていると、平井沙織が体育館の側にある洗い場にいるのが目に入った。明らかに元気がない。
「平井」
七瀬が声をかけると、平井沙織は「はい?」と無表情な顔を向けた。
ここまで喜怒哀楽が表に出るとチームの士気に影響すると七瀬は感じていた。酒井を心配しているのはみんな同じだが、彼女のそれは過剰に見えた。恋心のなせる業か?
「いい加減にしろよ」
少し強めに言ってみる。
「え?」
「おまえのその態度だよ。酒井が心配なのは分かるが、おまえまでそんなんじゃチームの士気に関わるだろ?」
次は弱く。
「おまえは酒井専属のマネージャーか?それとも光陰高校野球部のマネージャーか?どっちだ?」
平井沙織はうつむいてしまった。
「別におまえがどう思って野球部のマネージャーになったって構わないし、それについてとやかく言うつもりはない。ただ野球は団体競技だ。一人じゃ出来ない。それは酒井がどんなに凄いピッチャーでもだ。投げる奴がいて、受ける奴がいて、守ってくれる奴がいる。全員の力が一つになって初めて酒井のピッチングは生きるんだ」
「はい・・・」
「だったら酒井の大切な仲間に心配をかけるような真似はするな。あいつの夢、知ってるか?」
「甲子園に・・・」
「そうだ。でもあいつは甲子園に行くことだけが目的じゃないって言ってた。甲子園を目指すことに意味があるって。だからあいつはどの名門校も選ばずに光陰高校を選んだ。俺はすごいと思う。おまえはその光陰高校野球部に籍を置いている。言いたいこと、分かるか?」
平井沙織は目に涙を溜めていた。え?何で?おいおい、頼むから泣かないでくれよ。そんなに強く言ってないつもりなんだけど・・・
「だ、だからな・・・」
七瀬は少しうろたえながら次の句を継ごうとした時、平井沙織は口を開いた。
「七瀬さんもすごいですよ」
「な、何が?」
「だって・・・」
平井沙織は少し口ごもったが「酒井さんの転校のおかげで補欠になったのに、そんなふうに酒井さんのこと思えるなんて」と続けた。
NGだ。それは俺だって気にしている。それに補欠じゃない。一番センターだ。第一希望ではないけれど・・・
七瀬が何ともいえない顔をしているのを見て平井沙織は慌てて付け加える。
「あ、そういう意味じゃなくて。違うんです。ごめんなさい」
「別にいいよ。ほとんど正解だし」
七瀬は苦笑する。平井沙織も釣られるように笑った。
「酒井さんって・・・そう・・・なんだ。そう思って光陰に・・・来たんだ」
平井沙織は感激しているようだ。まぁするだろうな、と思う。七瀬だってそうだった。
「じゃーあたしも頑張らなきゃ。七瀬さん、今からロードワークですよね?」
「おう」
「あたし付き合います」
「い、いいよ。別にロードワークに付き合せたくて言ったんじゃないし」
「分かってますって。でも明日は七瀬さんの先発でしょ?ってことは頑張ってもらわないと。ボコボコにやられて光陰組み易し、なんて思われたら癪ですから」
平井沙織は満面の笑みを七瀬に向けた。
七瀬は思う。今度、説教する機会があったら、この子に教えてあげよう。ごめんなさいは、もう二度としませんという反省の意味も含んでいるんだよ、と。


-32-


練習試合は七瀬の完封勝利で幕を閉じた。打線も四番・白川のホームランなどで大量十二点を奪った。夏の予選にはずみのつく大勝だったと言っていい。この日の七瀬はコントロールが際立っていた。下半身に粘りが出たせいか、面白いようにコースに決まった。

「スピードも随分上がりましたよね」
帰り道でメロンパンを頬張りながら白川が言った。一個目はガツガツ食べて二個目はゆっくり食べる。食い物に関しては本当に卑しい。
「酒井さんとのロードワークの成果ですよ」
平井沙織がおどけるように言う。
姉の紗希は相変わらず無口だが、七瀬には喜んでくれているように見えた。そりゃーそうだろうと思う。毎朝のロードワークを毎日欠かさず付き合ってくれているのだ。結果が出たら嬉しいに決まってる。
「たまたまだよ」
七瀬は謙遜しておいた。一応。
「みんなでご飯でも食べて帰りません?あたし美味しい定食屋さん見つけたんです」
平井沙織が後ろから付いて歩く七瀬と白川、そして先頭を歩く姉の紗希に言った。
「いいですねー行こう行こう」
白川が平井沙織の提案に飛びつく。まだ食べるのか、おまえは。

平井沙織推薦の定食屋は、光陰高校のすぐ近くにあった。店構えからして、ここが定食屋だとは誰も気付かないのではなかろうか?と思えるほどオンボロな佇まいで、七瀬は大丈夫かよ、と心配になった。だが店内に入ると客は一杯だった。
「おお、流行ってんじゃん」
思わず口に出た。それを聞いた平井沙織は「隠れた名店って感じでしょ?」と言った。

品数は豊富だったが、平井沙織曰く「ここはハンバーグが最強ですよ」とのことだったので、それを注文した。ハンバーグ定食五百五十円。値段も大変リーズナブルだ。
しばらくして料理が四人の席に運ばれてきた。
「あれ?平井はハンバーグじゃないの?」
平井紗希の前には明らかに焼き魚定食と呼ばれているであろうセットが置かれていた。
「お姉ちゃん、お肉嫌いなんですよ」
妹が姉を代弁するように答える。
「あ、そうなの?」
「でもお肉食べないくせに胸は大きいんですよ」
平井沙織は貴重な情報をサラッと教えてくれた。胸は大きい、と。あ、肉は嫌いもインプット。
「ばか」
平井紗希は少し頬を染めた。七瀬の胸は締め付けられる。やっぱり可愛いな、と思う。くそー酒井め。妹は良いとして何で姉のハートまで鷲掴むんだ。

平井沙織の言うとおり料理は大変美味しかった。なんと表現していいか分からないが、白川が大盛りご飯を三杯もおかわりしたのが頷ける納得の味だった。料理が美味しいと会話も弾むもので、周りの客達の喧騒にも乗せられて四人は楽しく談笑した。

「おーい。テレビのボリューム上げてくれ」
隣の席の年配の男が声をあげる。テーブルには、ビールに刺身。七瀬の家では両親が酒を飲まないので、こういう組み合わせが食卓に並ぶことはない。そのせいか酒というものに対して逆に強い好奇心を抱いてしまう。テレビのボリュームが上がる。ニュースのようだ。
「昨日発見された河川敷バラバラ殺人事件の続報です」
ニュースキャスターが原稿を棒読みしている。
「怖いですよねー」
平井沙織が両肩を抱いて震える仕草をした。
この事件は知っている。昨日の晩に嫌というほどテレビで報道されていたからだ。七瀬と平井紗希がロードワークをしている河川敷の茂みの中で、若い男性と見られる身元不明の遺体が発見されたという事件だ。その煽りをくって翔子の事件はブラウン管から姿を消した。騒ぐだけ騒いで新しい事件が起きると飽きたおもちゃの様にほったらかす。現金なものだ。
「事件、続くね・・・」
平井紗希が呟く。
確かに、と七瀬も思う。ほんの少し前には、同じ河川敷で翔子の遺体が上がったのだから。
四人の視線は自然とテレビに向けられた。
「遺体で発見された男性の身元が判明しました」
ニュースキャスターはそこで一旦視線を手元の原稿に戻し、殊更はっきりとした口調でテレビを見ていた四人に視線と言葉を投げた。
え?何だって?
今、何て言ったんだ?
四人の周りだけ時間が止まった。
言葉以外の音も全て消えた。

「男性の名前は、酒井幸一さん。酒井幸一さんと判明いたしました。詳しくは・・・」


-33-


「もしもし。お忙しいところすいません。自分です。はい。ご無沙汰してます。ええ、実は折り入って頼みたいことがございまして」
男は受話器を隠すように話している。
「出来れば会ってお話を。はい。決して悪い話じゃないので。まぁ良いか悪いか判断するのは先輩ですけどね」
男が低く笑う。
「はい。では後ほど・・・」
受話器を置く。
ホテルの窓に新調したスーツに身を包む自分の姿が映る。
「馬鹿と鋏は使いようか・・・」
男はわざと声に出して呟いた。


-34-


「歯に名前が?」
佐藤警部補を始め捜査陣にどよめきが起こった。
「被害者の前歯は全部抜かれていたんだが、現場に散らばっていたのを鑑識が全て拾い集めた。すると歯の裏に文字が書き込まれていたそうだ。一本一本に一文字ずつ。ご丁寧になことだ。最初は何のことか見当も付かなかったが、並び替えて試してみると人名らしいと気付いたそうだ」
横山本部長が苦々しげに舌打ちをする。

酒井幸一の遺体は激しく損壊していた。会津翔子と同じだ。しかし今回が前の遺体と違ったのは、頭部、特に顔面が異常に傷つけられていたこと。左肩がハンマーのようなもので滅多打ちにされていたこと。あと酒井幸一の遺体の破壊行為は死後に行われたものであるということ。それでも残虐な行為に違いはない。死因は失血死。錆びた鋏で滅多刺しにされていた。

捜査本部は会津翔子の事件と酒井幸一の事件を関連付けて捜査することを捜査員に指示した。猟奇的な殺害方法と遺体発見現場が非常に近いというのが大きな根拠だが、会津翔子の事件が進展を見せていないことを含め、この事件から解決の糸口を見つけようという判断が働いている。

「行くぞ」
佐藤警部補は渡辺刑事にそう言って立ち上がった。
「はい」
渡辺刑事は沈んだ声を出した。会津翔子の遺体写真を見た時、もう二度とこんなのはごめんだ、と渡辺は思った。まさかそれから間をおかずして実際自分の目で見ることになるとは。

現場に一番に駆けつけた刑事は佐藤と渡辺だった。到着すると先に来ていた警官が一人いたが、彼は放心したように座り込んでいた。無理もない。あんな死体を見たら誰でもああなると思う。
「同一犯でしょうか?」
佐藤警部補は大きく息を吸い込んだ。
「恐らくな。こんな殺し方をする奴が一人ならいざ知らず二人もいるとは考えたくないのが人情だ。まぁ断定は出来んが」
「被害者二人の共通点は、今のところ一つだけ」
佐藤は助手席へ、渡辺は運転席へと心と同じく重くなった身体を滑り込ませた。


-35-


場末の居酒屋は週末ということもあって混雑していた。佐藤と渡辺は熱燗を飲みながら、眉間に皺を作っていた。光陰高校での聞き込みでは、事件への手掛かりなどは一切掴めなかった。分かったことは、酒井幸一の人望の高さと、彼を失ったことに対する校内の、特に野球部員達の悲しみの深さだった。
「見当もつきませんなぁ」
という藤崎教頭の声が頭をよぎる。光陰高校で今回の事件を冷静に対処できているのは彼ぐらいだったように佐藤は思う。宮田校長に至っては酒井の死に相当なショックを受けているらしく、事情聴取も満足に出来なかった。何でも大の野球好きだそうで、光陰高校野球部への肩入れの仕方は、一部の保護者から不満の声が上がるほどであったという。その甲斐あってか、酒井を擁する光陰高校は今夏優勝候補の一角に列せられるほどのレベルにまで力をつけていた。それだけに酒井の死は宮田校長にとっては痛恨事だったのだろう。
逆に会津翔子の評判は最悪だった。相当の不良小女という評価は校内でも不動のものであり、こちらの調べでも分かっているのだが、非行行為の事例には事欠かない。万引き、恐喝、暴行及び暴走行為、このくらいだったら幾らでも出てくる。

「煙草吸ってもいいですか?」
渡辺はそう言って断りを入れながらも、佐藤の返事を待たずにハイライトに火をつけた。どうせ吸うなら断りなど入れずに吸えばいいと思うのだが、これでも先輩の自分に筋を通しているのだろう。
佐藤は思考を戻す。酒井に関しては、彼を恨んでいる者というのは全く浮かび上がってこなかった。それに対し、会津翔子については恨んでない者を探すほうが困難なくらいだ。二人を殺害したのが同一犯としても、結びつける接点が一つもない。第一両者は会った事もないはずだ。酒井幸一が転校してきたのは二年の冬。会津翔子が退学になったのは一年の夏。酒井幸一が会津翔子を知る術は?会津翔子が酒井幸一を知る術は?

「七瀬光春か・・・」
佐藤は、二本目の熱燗を注文してから独り言のように言った。
「今のところ二人と共通して強い繋がりを持つ人物は七瀬光春だけですね。酒井とは野球部でエースの座を競い合ったライバル関係にあったそうですが、関係は良好だったようです。親友と呼べるほどの間柄だったというのが周囲の見方です。あと会津翔子とは以前恋人関係にあったそうです。彼女の退学になった事件についても彼は関係していますね。まぁこの件については刑事事件にはなっていませんし、これから捜査の必要があるかもしれません」
佐藤は七瀬光春の顔を思い返していた。印象で判断するわけではないが、とてもあんな事件を起こす人間には見えない。話の受け答えも優等生というわけではないが、はっきりとした物腰でこちらの目を見て話す。だがその態度があまりにも自然体過ぎて違和感を感じた。
刑事に事情聴取を受けるというのは誰でも相当なプレッシャーを受ける。必要以上のことを話したり、話さなかったりすることが常である。しかし彼は違った。聞かれることをあらかじめ想定して、話している様子に受け取れた。彼は何か知っているのではないか。佐藤は直感した。彼が人を殺したとは思わないが、何か隠しているし、それを頑なに知られないようにしている。

「アリバイはありますねぇ」渡辺は手帳を見ながら続ける。
「七瀬は毎朝六時に、部のマネージャーの平井紗希と一緒に河川敷でロードワークをしているそうです。酒井幸一の遺体が発見された日も、平井紗希と一緒だということが、目撃情報からも確認されています。この二人のロードワークは河川敷を散歩する人たちの中では有名だったようですね。よほどの強い雨が降らない限り毎日続けているそうですから」

平井紗希。見ていてこちらが目を伏せてしまうほどの美少女だった。日頃から無口なのだそうだが、こちらの質問にも最低限の言葉数で答えていた。あ、そうだ。妹の平井沙織。彼女は大丈夫だろうか。見ていて気の毒になるくらい憔悴していた。平井沙織は酒井幸一の専属マネージャーと言っても過言ではないくらいに、酒井を慕っていたそうだ。恐らく恋愛感情も含まれていたに違いない。十五歳の少女にとっては重過ぎる現実だった。
「とにかく七瀬光春にもう一度当たるしかないですね。酒井と会津を繋ぐ線は、現在これ一本ですから。あ、すいません」
渡辺はハイライトに火をつける。

Posted on 2011/10/08 Sat. 11:44 [edit]

category: WEB小説

tb: 0   cm: 0

-恋バイ⑤-  


恋愛バイアス


-21-


翔子は浮いていたそうだ。


死因は、鈍器のようなもので後頭部を強打されたのが致命傷だと聞いた。警察は、不良グループの内輪揉めと判断し、捜査を進めている・・・らしい。一介の高校生である七瀬に仕入れられる情報などこんなものだ。しかも相当程度の噂や伝聞も流れていたから、真実は実態よりも肥大化しているように思えた。
特に会津翔子の人となりについては、正直耳を塞ぎたい心境になった。札付きの不良少女の成れの果てはあんなもんさ、と訳知り顔で話す者。あの娘は殺されるような子じゃなかった、と知りもしないのに過剰にかばう者。そして傍観する者。

ブラウン管では、ワイドショーのコメンテーター達が、会ったこともない翔子について、ああだこうだと憶測を重ねている。発言は視聴者に向いていて(当然か)、被害者の翔子は完全に置き去りにされている。「本当に許せないですね」と、司会者が神妙な面持ちで話題を締めくくると、隣の女性アナウンサーがアイドルのようなカメラ目線で「では次の話題です」と元気一杯に微笑みかける。有名タレントN氏が、現在人気急上昇中のアイドルAと密会しただのしないだのという下世話な話題に、さっきまで神妙な顔をしていたコメンテーター達が、ジョーク交じりに井戸端会議を始めた。馬鹿にしてる、と七瀬は思う。

翔子の通夜で、七瀬は若い芸能リポーターにマイクを向けられたことを思い出した。答えたいと思わなかったし、答えてはいけない気がした。ここで話せば俺もその他大勢の一員になってしまう。何も答えないでいると、リポーターの男性はあからさまに不機嫌な顔になった。
「付き合ってたんでしょ?ガイシャと」
と、人目もはばからず大声でまくし立てる。それを聞いた回りのカメラマンやリポーター達が、餌を見つけたピラニアみたいに七瀬に群がった。
通夜にはそれほど多くの人が訪れていたわけではない。逆に野次馬的な人のほうが多かったように思う。ワイドショーを騒がせている事件。不思議ではない。それでも七瀬は久しぶりに中学時代の旧友達の多くと顔を合わせた。高校時代の翔子はともかく、中学までの彼女は学校の人気者だった。女子のほとんどが涙を流している。さすがに男子は泣けないか・・・と思っていたら、隅でこっそり涙を流すものがいた。あ、そうか。あいつ翔子のこと好きだったんだっけ。

「ねぇ、聞いてんの?」
レポーターの声で現実に引き戻される。何て目だ。好奇心?それとも仕事に対する情熱か?浴びせかけられるフラッシュ。口々に、思いつきとしか言いようのない言葉を発する大人たち。少なくともこいつらは翔子の死を悼んではいない。ガイシャとの関係は?犯人に心当たりは?好きだったんでしょ?聞いてどうする?そして何を書くんだ?書くだけ書いて、垂れ流すだけ垂れ流して責任は取らない。いや、取れない。そんなおまえらに知る権利なんかあるのか?関係ない。関係ないだろ。おまえらには関係ないはずだろ。ふざけるな。ふざけるんじゃない。怒りで目の前が赤くなる。膝が震える。駄目だ、もう止められない。

その時だった。平井紗希の手が七瀬の手を引いたのは。冷たい手。けれど心地良く感じるのは何故だろう。
平井は七瀬の腕に両手を絡ませると、カメラに向かって口から何かを噴射した。水か?ジュースか?どちらにしてもこんな光景は初めて見た。あっけにとられる報道陣を尻目に、七瀬と平井はその場を去った。勿論、全速力で。
平井は、あの日も無口だったが、一言だけ「大丈夫?」と聞いてきた。七瀬は頷いた。本当に大丈夫だったから。

翔子が死んでからというもの、学校では何故か七瀬が悲劇の渦中にいるような雰囲気になっていた。元彼女を殺害された元彼氏。
同情されているような感じがして七瀬は不快だった。こいつらは今の七瀬と翔子の関係を知らないから無理もないが、別に哀れまれる筋合いもない。七瀬自身、翔子が殺されてからも日常に変化はなかった。ショックじゃなかったとは言わない。けれど食事は喉を通ったし、睡眠もしっかりとれていた。自分は軽薄な人間なのだろうか?と悩む。悲しいのは悲しいし、特に翔子の両親のあのやつれた顔を思い出せば胸も痛む。翔子の母が言った。「教えて・・・」と。「翔子に何があったの?」と。それは七瀬だって知りたい。けれど知ってどうなる?人が、いや、極めて自分に関係の深い人間が殺されたということに対する憤りはあった。でもそれが七瀬の胸に激情を呼び起こすことはなかった。それなのに、あのリポーターに囲まれた瞬間、どうしようもない嫌悪感と怒りが湧いた。自分を棚に上げるようだが、かと言ってあんたらに好き勝手言われたくはない、と思ったのかもしれない。

翔子の遺体が上がった現場に七瀬はいた。上流には浅田ダムがあり、下流には七瀬と酒井がロードワーク中に立ち寄る河川敷のグラウンドがある。翔子の遺体は、ちょうどその中程で発見された。たくさんの花束と手紙、そしてお菓子やぬいぐるみ、ありとあらゆる物が供えられている。
「翔子・・・」
七瀬は呟いた。君の人生は一体なんだったのか?
もし本当に仲間内の揉め事が原因で死んだとしたら、君が見つけた居場所や仲間は一体・・・言葉にならなかった。七瀬は、翔子が好きだったジュースを、供え物から少し離れた場所に置いた。翔子は、花もお菓子もぬいぐるみも好きではなかったことを思い出す。大体甘いものが好きじゃなかったもんな。唯一好む甘い物。それがファンタだった。付き合い始めた頃、よくキャッチボールをした。野球は嫌いだったみたいだが、キャッチボールだけは好きみたいで、よく付き合わされた。
ジュースの横に、軟式のボールを寄り添うように置いた。仲良く寄り添わせたかった。君の好きなものだけを。その時、初めて七瀬は目頭が熱くなるのを感じた。


-22-


郵便受けを開けると、肉片が詰まっていた。
猫?一体じゃない?頭蓋に脚部、胴体、どれも一つの形を成すのには数が多すぎる。バラバラに切断された猫の死骸。そしてその幾つものパーツは、郵便受け一杯にぎゅうぎゅうに詰め込まれていた。酒井は吐いた。


-23-


スタジオ内は、轟音が鳴り響いていた。低音・高音が入り乱れ、中域がすっぽり抜け落ちている。それでも四人がうねり出すグルーヴは、矢野にとって最強の武器だと感じた。上手い下手なんて関係ない。今、この瞬間に魂を込めてギターを掻き鳴らしたい。曲がエンディングに近づくと、テンションは更にハイになり、矢野は身体ごとギターを振り回した。演奏が止まった。ベースの竹上さんが後頭部を抱えていた。ギターのネックが折れていた。

今日もやってしまった。矢野は沈痛な面持ちだった。打撃を受けた竹上さんには悪いが、俺のレスポールの方が絶対に痛い。
「修理したって音変わっちゃうよ」
と、スタジオの店員さんが言っていた。その日の湿度やハコ環境でも音なんか変わるじゃねーか、と言いたくなったが止めた。音楽をかじってる奴は何故こうも雑な知識を押し付けてくるのだろうか。まぁ音なんて歪めば何でもいいのだが、新しいギターを買う余裕なんて矢野にはないし、修理に出すお金すら持ってない。スタジオの帰り道、矢野は金策についてあれこれ思案しながら、竹上さんの運転する車の助手席で、うんうん唸っていた。

「あんま気にすんなよ。あれくらい大したことねぇって」
竹上さんが沈痛な面持ちの矢野を気の毒に思ったのか、声を掛けた。ところがどっこい矢野は竹上さんのことで唸っているわけではないのだから少し笑えた。
「いや、ほんと申し訳ないです」
矢野は、そういうことならそういう風にしておこうと考え、神妙な声を出す。本当に調子がいい、と自分でも思う。

竹上さんは、竹上士郎といって現在二十二歳。昼は建築現場で働き、夜はバンド活動をしているのだが、その容姿は圧倒的に威圧的だ。髪の毛と眉毛は剃り上げられ、両肩にはタトゥーが入っている。それだけならいいのだが、そのタトゥーの文字に独特のセンスが発揮されていて、右肩に「根性」、左肩に「栄光」と彫ってある。矢野はどうだろう?と思うのだが、本人はいたって気に入っているらしい。酒を飲むと両肩のタトゥーを自慢するのが癖になっている。ただ「アルコールが入ると刺青の部分が異常にかゆいんだよ」と言って、肩をボリボリと掻く仕草が堪らなく笑えた。毛のないゴリラだ。

「お、いい女だな」
竹上が車の速度をゆるめた。中古の軽自動車で、しかも外装はピンク色ときている。ますます分からないセンスなのだが、これも本人はいたってお気に入りだ。
「どれっすか?」
矢野が竹上の視線の先に目をやる。
「ほれ、あの黒髪の女の子」
平井沙織だ。矢野は吹き出してしまった。
「あれ高一っすよ。いい女っつーからどんなのかと思ったら。何すか、竹上さんってロリコンの気があるんすか?」
竹上は驚いた顔で「ロ、ロリコンの趣味なんかねぇよ。しかし高一かぁ。てっきり高二くらいだと思ったけどなぁ」
どっちにしても変わらないじゃないか。矢野は心の中で突っ込んだ。
「あの子、うちの高校の野球部のマネージャーっすよ」
「そうなのか?」
「紹介しましょうか?まだ面識ないけど、俺の手にかかれば・・・」
本当に調子がいいな、俺って。
「マジか?」
竹上は獰猛な表情を緩ませる。
「ええ、いいで・・・」
そこまで言った時、視界に、ある人物が飛び込んできた。
「あれ?」
「どうした?無理なのかよ?」
「いや、そうじゃなくて」
平井沙織の二十メートル程先に、酒井幸一が歩いているのが見えたのだ。すごく虚ろな目をしている。あいつあんな顔する奴だったっけ?酒井が、十字路を右に折れた。すると平井沙織が小走りになり、同じく十字路を右に曲がる。
「そういうことか・・・」
矢野はなるほどと一人頷く。
「そういうことってどういうことなんだよ?なぁ、マジで紹介してくれんのかよ?なぁ?」
一目惚れでもしたのだろうか、哀願するように聞いてくる竹上に、矢野は指先で小さなバツを作った。


-24-


夜の街のネオンが澱んで見える。自分の目が澱んでいるのか、それとも、本当に街が澱んでいるのか。男は今日も快楽を求めて街を徘徊していた。老若男女、様々な人種が自分とすれ違っていく。男は視線を伏せ目がちにしながらも、今夜のターゲットを絞り込んでいた。
女なら誰でも良いというわけではない。女を買う金に困ってはいなかったが、裕福というほどの経済力はない。どうしても相手が見つからない時は、そういう場所に行くこともあるが、やはり擦れた女より素人の方が燃えるし、安上がりだ。どいつもこいつもカマトトぶっているが、女なんて服を脱がして突っ込んでやれば誰でも同じようにいいなりになる。男は自分に言い聞かせるように思考をめぐらせた。

一週間ほど前に、初めて入ったバーで女を釣った。旦那が単身赴任で暇を持て余しているという。見た目通り派手なプレイを好むようで、次の日の朝まで身体を重ねた。嫌というほど快楽を貪り、放心した女を置いてホテルを出たが、財布から金を抜き取ることも忘れなかった。

ニ・三日前は、公園で飲んだくれて寝ている女を公衆便所に連れ込んで犯した。女は意識が朦朧としているようで、おもちゃのようだった。それなら、と男も女に人格などないかのように扱った。行為の後、女をベンチまで連れて行き「タクシーを呼んでくるから」と、言って寝かせ、そのまま逃げた。

昨夜は、テレクラで知り合った女子大生を抱いた。酒を飲んでホテルで話していると、男が驚くような有名女子大の生徒だった。刺激がほしい、毎日がつまらない、と女子大生は投げやりに言っていた。自分と同じように快楽を求めたわけではないのだろう。ただ何か人と違う経験がしたかっただけに違いない。いや、ただ単純に話し相手が欲しかったのかもしれない。自分を知らない誰かに今の自分だけを切り取って話がしたい。そんな様子だった。
男が行為に及ぼうとすると、女は突然拒否する態度をとった。男は強引に女を犯した。最初は抵抗したが、やがて泣きながら男のなすがままになった。この期に及んで何を泣いているんだ、と不快に思ったが、かまわず最後まで弄んだ。ホテルを出る時、何故か女のこの後の行動が気にかかり金を握らせた。タクシーで家に帰る途中、ものすごく損をした気持ちになった。明日はもっと慎重にやるか。

男は行きつけのバーに入った。マスターが下種な微笑を浮かべながら「いらっしゃい」と言った。粘着質な声で、太った外見とよく合う。
ウイスキーを注文して煙草を燻らせていると、ある女に目が止まった。カウンターの後ろにあるトイレから少し酔ったような足取りで歩いてきた。照明が暗くて女の顔がよく見えない。女は男から少し離れた席に背中を見せて座った。マスターが目だけで男にサインを送る。「この女いけますぜ」そんな目だ。男は女の背中をマジマジと見た。確かに後姿は百点だ。しかしこういう女に限って、ろくな顔をしていないのも経験上、知っている。時計を見た。夜の十時を指している。今日はもう時間がない。この女で手を打っておくか。男は宝くじでも買うような気分で女に声をかけた。


-25-


「花、君が?」
翔子の命日になると、必ずあの場所に花が供えられていた。二十年間欠かすことなく。
何度も確かめようと思った。だが彼には出来なかった。現実に向き合うのが怖かった。それ以外の理由なんてきっとない。ないはずだ。
平井は何も言わずボールを投げ返した。少しだけ唇を噛みながら。


-26-


「ひどい殺し方するもんだ」
佐藤警部補は、手元の資料を見ながら舌打ちをした。
「後頭部を強打されたのが致命傷・・・でも被害者は早く楽にしてくれって思ったろうな」
佐藤は毒づく。
渡辺刑事が資料を引き取ると「こんな拷問受けてりゃ・・・気も狂わんばかりだったろう」と、忌々しげに付け加えた。
会津翔子の遺体はかなり激しく損壊していた。ありとあらゆる拷問が彼女に加えられたのは確実で、新聞等の報道では細部まで世間に知れ渡ってはいないものの、明らかに猟奇的な類に入る事件だった。
「よほど恨まれていたってことですかね?」
渡辺刑事は資料から目を背ける。昼飯に焼肉定食なんて食べるんじゃなかった。
「怨恨の線でいくと捜査本部が言ってるんだ。まずはそこから洗うしかないが・・・それだけでは片付けられない何かがこの事件にはある気がするよ」
「確かに」
「しかも・・・何故か顔だけは綺麗なままだ」

Posted on 2011/10/04 Tue. 15:56 [edit]

category: WEB小説

tb: 0   cm: 0

プロフィール

最近の記事

最近のコメント

月別アーカイブ

カテゴリー

ブログ内検索

リンク