空色ノート
中小路昌和のBLOGです。
-恋バイ④- 
09/29
恋愛バイアス
-17-
闇を恐れるようになっていた。
あれ以来、酒井は朝のロードワークには行けていない。家の周辺に人気が出て来た頃になって、やっと柔軟と軽いダッシュをする。体力が衰えたとは思わないが、このままではベストのコンディションを大会に間に合わせるのは困難に思えた。朝のロードワークを七瀬と一緒にやればいい、とも考えたが、最近の七瀬はどうも様子がおかしい。心ここにあらずというか、練習中もぼんやりしていることが多く、酒井とのロードワークも手を抜き気味だった。
酒井はエレベーターに乗り込むと自宅のある十階のボタンを押す。
低い音が鳴り、エレベーターは上昇。そしてすぐに二階で止まった。まただ。酒井は心臓が縮み上がる思いがした。恐る恐るエレベーターから顔を出し誰かいないか確認する。やはり誰もいない。
ここ二ヶ月というもの、いつもこの調子だった。ポストに生ゴミが入っていたり、玄関のドアノブに髪の毛が巻き付いていたりはまだ序の口で、この間などは駅のホームで後ろから何者かに背中を押されるという経験をした。無言電話は鳴り止まず、家族もノイローゼ気味であった。
酒井自身にはこういった嫌がらせをされる覚えも心当たりもなかったので困惑した。そして一番不気味に感じたのが、このエレベーターだ。何故か酒井が乗ると各階で止まる。ほぼ毎回である。一時は階段を使って上り下りをしていたが、いつだったか階段から軟式のボールが転がってきた。手にしてみるとボールがカッターか何かで滅茶苦茶に傷つけられていた。酒井は戦慄した。
七瀬は酒井と下校していた。練習が軽めに終わったと思ったら、久しぶりに吐くほどの距離を酒井と一緒に走った。酒井は何かにとり憑かれたように走っていた。まさに鬼気迫るという感じだ。
「どうしたんだ?」
七瀬は思い切って聞いてみた。近頃の酒井は出会った頃と著しい変化を見せていたからだ。最初は気のせいかと思ったが、視線をキョロキョロと周囲に走らせ、少しの物音にも過剰に反応する。口数は目に見えて減っていき、練習でもイージーミスが目立った。
「別に・・・」
酒井は最初こそ言葉を濁していたが、七瀬が強く迫ると今まで溜めていた何かを吐き出すように話しはじめた。その内容は酒井のキャラクターからは程遠く、七瀬はにわかに信じられなかった。いじめなのか?嫌がらせなのか?
「警察には?言ったのか?」
酒井はかぶりを振った。酒井の両親曰く、騒ぎにはしたくないらしい。性質の悪い嫌がらせや悪戯だとしたら、こちらが反応しなければそのうち飽きるだろうという見解だそうだ。七瀬はそんなもんなのかな、とも思ったが、酒井の両親は市会議員を務めたり、ボランティア活動に熱心だったりと、社会的ステータスの高い人種なので、そのあたりが騒ぎにしたくない原因なんじゃないかと先に頭に浮かんだ。勿論口には出さなかったが。
七瀬は酒井の住むマンションへと足を運んだ。酒井の言うことが本当だったとしたら許せない行為だと思ったからだ。帰り道で平井と出くわした。いや、出くわしたというより待っていたという表現が当てはまる気がした。当然、自分ではなく酒井をだ。何だよ、やっぱりそうかよ、と心の中で舌打ちをしたい気分になった。まぁこれも態度にはおくびにも出さなかったが。
三人で酒井のマンションまで歩いた。酒井の状況は平井も知ってるのだろうか?酒井の様子では話していないのではないかと思えた。平井の表情も読めない。今日も強烈に無口だ。
「お茶でも飲んでいってよ」
酒井は言った。
「そうか?ではでは遠慮なく頂くとしますかぁ?」
七瀬は平井に向かってちゃらけた感じで同意を求める。平井は「うん」とだけ言って付いてきた。
酒井、平井、七瀬の順でマンションのロビーに入り、エレベーターへと向かう。見たこともないような豪華なマンションだった。ロビーだけで七瀬の家が幾つも入りそうな広さがある。しかも滝。滝が流れています。七瀬は自分が場違いな場所に来たと感じたが、平井は気にする様子もない。そういや平井の家も資産家だって話だったっけ?見慣れてるのかな、こういう風景、と考えたが、すぐに思いつきたくもない思考が頭をよぎる。付き合ってるなら一度や二度は来たことがあるのかもな・・・七瀬はどうしようもなく落ち込んだ気持ちになってきた。
問題のエレベーターの前に三人は立った。七瀬は心臓が早鐘を打つのを自覚した。チン、という音が鳴って、エレベーターのドアが開く。酒井は意を決したように乗り込むと「10」の数字を力強く押した。七瀬は緊張した。本当に各階で止まるのだろうか。止まったらどうしたらいい?拳に力が入る。
「いやぁ、気持ちいいくらいストレートに部屋に辿り着いたねぇ」
平井がトイレに行くのを確認し、七瀬は酒井の顔を覗き込んだ。ほっとしたような、拍子抜けしたような顔をしている。
「今日だけたまたまってこともあるから、明日も帰りは付き合ってやるけどよ」
「でも・・・悪いし・・・」
「いいんだって。もしこのままノイローゼにでもなられたらチームにとっては損失だからな。ま、俺にとっちゃラッキーかもだけど」
七瀬はクッキーをほうばりながらおどけた。
酒井はその時、心底安堵した様子で「エースの座は渡さないよ」と言った。おお、久しぶりに見たな、この顔は。
その後、三人で若者らしい時間を過ごした。野球のこともそれなりに話したが、テレビやゲームの話題が主だった。趣味の話になって、酒井の趣味が駅弁の食べ歩きと知って驚いた。じじいみたいな趣味だな、と言って、みんなで笑った。平井もよく笑っていた。平井は裁縫が趣味だという。可愛いアップリケのついたポケットティッシュのカバーを見せてもらった。七瀬は平井の新しい一面を知った気がした。可愛い小物なんて持っていないと漠然と想像していたからだ。
「夕食もどう?」
と、酒井に言われたが、それは辞退した。ナイフとフォークが出てきたらお手上げだ。
玄関まで酒井が見送ってくれた。自分なら部屋でバイバイだ。こういう所がモテる男の所作ってやつなのか。
「また明日」
七瀬と平井が玄関のドアを開けた瞬間、けたたましいエンジン音が響いた。
「暴走族かな。最近、多いよね」
酒井が暗い声を出す。
「何が面白いのかね。奴らにとっちゃ俺達みたいなグランドで泥んこ遊びってな人種も同じように映るんだろうけど」
七瀬がそう言うと、酒井と平井は顔を見合わせて笑った。これは確実に付き合ってる。
七瀬と平井はエレベーターでロビーに降り、玄関で別れた。平井の後姿を何度か振り返りつつ歩いていたら、電信柱にぶつかった。コントかよ。
その時、足元に何か映った。
大量のツバと煙草の吸殻。その内の数本には真っ赤なルージュが付着していた。
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19××年××月××日 週刊×× 増刊号
先月、本誌でお伝えした××市でのリンチ殺害事件が新たな展開を見せている。被害者××さんは、当時不良グループと親密な関係にあったらしいというのだ。××さんが以前、暴行事件を起こしたという情報も本誌はキャッチしており、××さんの過去が事件の真相を解き明かす鍵になりそうだ。イジメによるリンチ殺害事件は、不良グループ内の血なまぐさい内輪揉めという様相を見せ始め・・・
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新学期になった。七瀬達は進級し三年生になった。いよいよ高校生活も残すところ一年だ。
矢野と平井と同じクラスになった。矢野は飛び上がるほど喜んでいたが、それは七瀬と同じクラスになったからではないようだ。もう無理だって、と七瀬は思うが、言っても聞く奴じゃない。一方、七瀬は平井と同じクラスになったことに困惑していた。朝のロードワークは欠かさずやっているし、毎日平井とは顔を合わせていたが、どうもよそよそしい態度で平井と接してしまっていた。原因は明白で、酒井とのことがどうしても心に引っ掛かかる。
「一年間、宜しくね」
平井が珍しく声を掛けてきた。しかし七瀬は「おう」とぶっきら棒に答えるしか術を知らなかった。
学級委員に任命された。矢野が冗談半分で推薦したら、そのまま決まってしまったのだ。とてつもなく余計なことをしやがって、という気分になったが、もう一人の学級委員が立石留美という学年でも割と可愛い部類に入る女子に決まって、そんなに嫌でもなくなった。男って生き物はどうしようもない。
早速、担任の小田先生に用事を仰せつかった七瀬と立石は、日頃入り慣れていない職員室にいた。
「このプリントを配って、今週中に提出するように伝えてくれ」
と小田は言った。自分でやれよそれくらい、と激しく思ったが、出だしから担任と揉めるのはまずいし、立石も別段不満な様子もなかったので黙っていた。
廊下を立石と雑談しながら歩く。
「野球部の酒井君って平井さんと付き合ってるって本当?」
立石が七瀬に遠慮がちに聞いてきた。彼女も酒井信者らしい。
「さぁ」
とだけ答え、七瀬は興味がない振りをした。
廊下の向こうからキャプテンの安藤誠二が、小柄な女の子を連れて歩いてきた。なかなか可愛いじゃないか。今日は女運がいいのかなと思う。
「よう、七瀬。似合わない物を持ってるな」
安藤が気さくに話しかけてきた。
酒井が転校してくるまでは、この安藤が野球部の男前ランキング一位だったそうで、よく矢野から浮いた話を聞かされたものだ。大概は憶測の域を出ない噂話だったが、安藤自身、女性に対して積極的なようで、七瀬も安藤が女の子を連れて歩いているのをよく目撃した。
「学級委員という大役を拝命して、その職責の重さを痛感しておるところだよ」
七瀬は政治家を気取った。
「へぇ、捨て身だね、お前のクラスは」
安藤が笑う。
「あ、そうそう」
安藤はそう言って、後ろにくっついていた小柄な女の子を七瀬の前へと促した。黒髪の綺麗な女の子で、目鼻立ちがはっきりしていて、唇が厚いのが特徴的だ。はっきり言って好みの顔だった。少女は、はにかんだような仕草で、ペコリと頭を下げた。
「マネージャーとして今日から部の練習に顔を出すから、面倒を見てやってくれ」
安藤は自分がキャプテンであるのを誇示するように言った。
普通、こういう態度をとられると腹の一つも立つのだが、安藤はそれが嫌味にならないという独特のオーラを持っていた。その時、後ろから酒井の声がした。
「沙織ちゃんじゃないか。入学おめでとう」
少女はその瞬間、驚くほど大きな声で「きゃー!酒井さん!!」と叫び、風のように安藤と七瀬の前を過ぎ去り、一目散に酒井のほうへ。・・・新入生まで酒井信者なのか。
酒井は笑顔を取り戻していた。近頃は嫌がらせの類もなくなったらしく、朝のロードワークも再開したようである。七瀬は幸せを逃す溜息を吐きながらその場を去ろうとした。
「あ、みっちゃん。平井さんの妹の沙織ちゃんだよ。もう紹介されてたのかな」
またもや酒井の声がする。
平井さん。妹。沙織ちゃん。全てのパーツが別々の形で耳に飛び込んできた。そのパーツが完全に意味を成すまでに、たっぷり五秒はかかったと思う。
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朝のロードワークが終わり、七瀬は自宅で軽くシャワーを浴びた。
浴室を出るとキッチンに向かい、朝食の支度をする。ロードワークを始めるまでは母親が作ってくれていたのだが、自分の方が早く起きるし、材料さえあれば簡単な食事は作れるので、母には寝ていてもらうことにしている。七瀬の母は身体が弱く、いつもちょっとしたことで体調を崩していた。出来ることなら負担をかけたくないというのは素直な気持ちだ。
朝食はご飯派かパン派に分かれるらしいが、七瀬は断然ご飯派である。理由は白米が好きだから。違うか。本当は理由なんてないのかな、と思う。漠然とパンってやつは腹が膨れる気がしないだけだ。
手際よくキッチンで料理を作る。料理といってもソーセージとスクランブルエッグをフライパンで焼くだけ。あとは味噌汁か。味噌は少しずつ溶かすのがセオリーらしいが七瀬は気にしない。大雑把に味噌をお玉に取ると、これまた大雑把に溶かす。どうせ溶けるんだしいいじゃねーか。
平井のことが頭に浮かぶ。彼女はパン派だろうな、と思う。オニオンスープにクロアッサン。そして彩りのバランスが取れたサラダ。ヨーグルトとかも食べてそうだよな。
もういい加減にしないとな。彼は自嘲する。平井に対する感情が恋愛感情だということは分かってる。でも自分には高嶺の花だし、酒井という彼氏もいる。勿論これは噂の域を出ないけど。それでも人間には釣り合いというものがあるわけで。ああ、もう!まただよ。やめよやめよ。
電話が鳴った。
まだ随分早い時間だ。野球部の連絡網か何かだろうか。
「はい。七瀬です」
「・・・もしもし・・・七瀬さんのお宅でしょうか・・・」
消え入りそうな声。かろうじて女性であるというのが確認できる。聞いたことがある声だ。
「はい。そうですけど」
七瀬がどちら様でしょうか?と言葉を繋ごうとした矢先、受話器の声が濡れた。
「光春君?」
「は、はい」
「会津です。会津翔子の母です」
ああ、と声に出た。どこかで聞いたことがあるはずだった。それにしてもこれが翔子の母親の声だろうか?あの明るくて陽気な・・・
「ど、どうしたんですか?」
動揺で言葉が詰まる。
「翔子が・・・翔子が・・・」
なんだ?何なんだ?翔子が一体どうしたって言うんだ?
「おばさん、どうしたんですか?おばさん?おばさん!!」
七瀬の声は受話器越しの翔子の母に届いているのだろうか。聞こえるのは悲痛なまでのすすり泣きだけだった。
-恋バイ③- 
09/28
恋愛バイアス
-11-
「どうして此処に?」
七瀬は言った。
「思い出の場所でしょ?」
女性は微笑とともにボール投げ返す。
「七瀬さん・・・変わらない」
「そうかな・・・平井のほうこそ変わらないよ」
七瀬と平井は二十年ぶりに河川敷に立っていた。七瀬は、またボールを投げ返した。今度はゆっくりと、弧を描くように。
-12-
七瀬と平井の早朝ロードワークが始まった。まだ日が昇りきらない時間。こんな早朝に起きることは滅多にない。対外試合がある時か、早朝練習がある時くらいだ。それでも思考は不思議と冴えている。前夜はあまり寝付けなかったはずなのに。
勢いよくベッドを抜け出すと、顔を手早く洗い、河川敷まで自転車を飛ばす。朝の匂いがする。悪くない気分。いや、結構清々しいかも。
平井紗希はすでに河川敷にいた。朱色のジャージに、肩から鎖骨にかかった少し茶色い髪が、朝の光を浴びて綺麗に見えた。軽い挨拶を交わした後、七瀬を先頭に、平井が後ろから自転車で着いてくる、という形でロードワークがスタートする。
ロードワーク中に会話というものはほとんどない。それでも時々「あと少し、頑張って」とか「ペース、落ちてるよ」という彼女の声が、不思議と七瀬に力を与えた。見張られているという緊迫感からなのか、思ったよりも快調なペースで走りこむ。そしてそんな日々を過ごしながら迎えた大晦日の朝、七瀬は彼女から初詣に誘われた。
街の中心からさほど離れていないせいか、峯川神社は初詣になると参拝客で溢れる。人ごみは好きではない七瀬だが、不思議と初詣の人ごみや賑わいというのは嫌いではない。あ、そう言えばこの神社は縁結びのご利益があるんだっけ。若いカップルの姿が目に付くような気もする。新年早々お暑いことで・・・七瀬は少し可笑しくなった。
人ごみでごった返した最寄の駅で平井と待ち合わせると、どことなく緊張感を覚えながら峯川神社へと足を向ける。
「晴れ着なんだね、今日」
「うん」
平井紗希は正月らしく晴れ着で駅に現れた。たくさんの参拝客にもまぎれないほどの存在感を彼女は放っていた。確かに晴れ着も綺麗だし、何ていう模様か見当もつかないけれど、職人の見事な仕事ぶりを感じさせる。けれどその晴れ着を際立たせているのは彼女の方だと思う。そんなことは口に出して言う柄でもないし、関係でもないので当然黙っていた。
参拝を済ませ、おみくじでも引こうか、と言ったら断られた。神頼みは好きではないらしい。それなら何で初詣に?とも思ったが、どうでもいいような気がして、これにも黙って頷いた。境内を出ると、露店が並んでいた。七瀬としてはテンションが上がったが、彼女は特別何も変わらない様子で「お茶を飲みましょう」と言った。
平井の飲むお茶は本物だった。見たこともないような装飾が施された和菓子に、少し泡を含んだ緑色の液体。千利休だ。七瀬はさすがに身構えた。しかも千二百円・・・高すぎだっつーの。
「なぁ・・・これ、何回まわすの?」
七瀬は小声で平井紗希に話しかけた。
七瀬と平井の通された座敷は個室だった。適当に飲んじゃえばいいか、とも思ったが、無作法があった瞬間に襖が開いて「無礼者!」という怒号の元に、お手つきされそうな予感があった。無礼じゃないの、無知なだけ・・・と言い訳まで考え始めている。
彼女は、くすっと少しだけ笑うと、手にしていた器を持って一気に飲み干した。
「お、おい、まわさなくてもいいのかよ・・・しかもグイ飲みはまずいんじゃないの?」
七瀬は驚いて彼女の顔を見た。
「誰も見てないよ」
彼女はそう言うと、これまたおごそかな空気をかもし出している和菓子を、一口で口の中に放り込んでしまった。
「ね?」
彼女は悪戯っ子みたいな笑顔を見せた。当然、初めて見る表情だった。
「お正月に着る晴れ着もいいけど、成人式に着る晴れ着?振袖っていうのかな?あれを着るのが夢なの」
平井紗希は、どこか遠くを見るような顔で言った。
帰り道、行きかう人々の雑踏の中、七瀬には彼女の姿と声だけが鮮明に彩られている。まるで時間が止まっているみたいな感覚。
「大げさだなぁ。もう二・三年もすれば着られるよ」
七瀬は精一杯普段通りの自分を演出する。
「あとニ・三年で大人になるんだよ?あたしは想像もできないな。七瀬さんは想像できるの?」
彼女がこちらを見る。
「したこともないです」即答。
「やっぱり。えっとね、子供の頃にテレビで成人式の映像が流れていたのを見たの。子供心に素敵だなって思った。あたしも大人になったら、こういう素敵な女の人になっていたいなって。女の人が一番素敵で輝いてる瞬間って感じがして胸がドキドキしたの。だから、ちっぽけかもしれないけど、それがあたしの夢」
七瀬は何も言わなかった。君ならきっと素敵で立派な大人になれるよ、と心で思った。そして出来ればそれを見てみたいな、とも思った。駅の改札が近づいてくる。仕方ない。二度手間だけど、あとでもう一度、お参りに行ってお願いしてこよう。
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酒井は、いつものように朝のロードワークに出かけた。変わりばえのない毎日。でもその毎日は確実に自分の目標へと続いている。新チームに入って不安なことだらけだった。けれどチームメイトみんなが自分を暖かく迎え入れてくれた。特に七瀬。彼の存在は酒井にとって心強いものになりつつある。青臭い夢だと笑われるのが怖くて、自分の夢を親にさえ正直に打ち明けたことはなかった。でも何故か七瀬には素直に話すことが出来た。いい奴だと思う。彼は笑わずに聞いてくれた。そして一緒に甲子園に行こう、と言った時、頷いてもくれた。これ以上ない毎日だ。頑張らなければいけない。自分がチームのために出来ることを、毎日精一杯やっていこう。
光陰高校野球部は決して弱いチームではない。酒井か七瀬、どちらがエースとして起用されるかは分からないが、キャラクターの違う左と右のピッチャーがいることは強みだと思う。酒井が投げる時は、七瀬はセンターに入る。チーム一の俊足を生かした広い守備範囲を平岡監督は買っているようだ。攻撃的な性格もトップバッターとしては申し分ない。しかも強気なリードオフマンにありがちな淡白さはない。大きいのを狙うより塁に出ることを目的に打席に立つタイプだ。
四番にはキャッチャーの白川が座る。長打力が魅力で、勝負強いとは言いがたいが、ツボにはまれば手がつけられない。リードに関しては少し教科書通り、という感は否めないが、それはセオリーに忠実で、リスキーさを回避しているということ。読まれやすいが、崩れにくいリードとも言える。
守備の要はキャプテン安藤。チームのムードメーカー的存在で、派手なプレーを好むわりに守備は堅実と言っていい。打者としても好打者タイプで、安定感なら白川を上回る打棒を発揮しているし、総合力ではナンバーワンの選手だろう。
確かに甲子園に行くには何もかもが足りない。しかし時間はまだまだある。殻を破りそうな選手だって幾人もいる。チームのムードも上昇気流に乗っているようだ。手前味噌だが、自分という存在がチームに劇的な化学反応を起こさせたのかもしれないと感じている。それなら自分はもっともっと自分の役割に徹しよう。野球は一人でやるものではない。自分もチームのパーツとしてしっかり機能しなければいけない。酒井はこのチームで甲子園に行きたいと心から思うようになっていた。
酒井はいつものロードワークを終えると、少し時間が余ったので、河川敷のグランドに行くことにした。あそこは少年野球チームや中学の硬式のクラブチームなどが、頻繁に練習に利用している。ちょっと見学していこう、という気持ちになったのだ。
河川敷に着くと予想通り、野球少年たちがグランドで元気よくプレーしていた。中学のクラブチームのようだ。硬式球を使っているのも判断材料だが、選手の動きが普通の中学生にしては良すぎる。あ、特にあのサードの選手は、いい足の運びをしているな。
三十分ほど見ていただろうか。酒井がそろそろ引き上げようとした時、グランドから一人の女の子が酒井の側まで走りよってきた。
「光陰高校の方ですか?」
呼吸を整えながら、少女が酒井に声をかけてきた。
「うん。そうだけど・・・」
少女の顔が劇的に明るくなる。厚めの唇が笑うとほどよく薄くなり、清純なイメージを増幅させる。相当可愛いと言っても差し支えのないレベル・・・何て七瀬のような分析をしてる自分が少し可笑しくなる。随分と影響されているのかな。
「やっぱり。絶対に見たことあるって思ったんですよ。ひょっとして酒井さん?」
「は、はい」
「きゃーすごい!本物だぁ!雑誌で見たとおりです!!」
少女は呼吸を整えるのも忘れて、興奮の余り更に呼吸を乱しているようだ。両手を口元に当てて、飛び跳ねている。苦手なタイプではないが、元気すぎる異性に自分が上手く対応できるとは思わないので、酒井は早々に退散することにした。
「じゃあ、僕はそろそろ・・・」
そう言って腰を浮かせる。
「あ、待って下さい!!」
少女が大きな声を上げる。見た目よりハスキーな声だ。
「は、はい、何でしょう・・・」
「姉がいつもお世話になっております」
少女はほぼ垂直にお辞儀をしてみせた。
「姉?」
「はい。あ、あたし平井沙織といいます」
「はい?」
「平井紗希の妹、平井沙織です。光陰高校入学予定、同野球部マネージャー予定です。宜しくお願いします!!」
-14-
年が明けて、新学期まであと一ヶ月。七瀬達の光陰高校野球部にとって、秋の新人戦の敗退で、甲子園を目指す春の全国大会の夢は破れた。が、夏の予選を目前に控える大切な時期に差しかかっており、今日は練習後に夏の大会のレギュラーが発表されることになっていた。全9ポジションを、野球部員二十九人が争ってきたわけだが、現時点で一応の結果が出る。ベンチ入りは十八人。レギュラー九人と控え九人に分けられ、その他の部員はスタンドからチームの勝利をサポートすることになる。七瀬は前回の秋の新人戦では、エースナンバーの背番号1を背中に付けていた。その前は背番号11。三年生の控え投手ではあったが、三試合中、二試合に登板し、7イニングで失点は0。まずまずの成績で、新チームのエースとして期待されたが、先に述べたとおり結果を出せないでいた。
大方の下馬評では、エースは酒井幸一が圧倒的に有力だった。超高校級左腕は、チーム加入後も着実に成長し、苦手とされていた内角を攻めるピッチングも徐々に実を結びつつあった。光陰高校はこの酒井を中心に守りの野球を標榜し、足を使った機動力野球で大会を勝ち進もうと目論んでいた。実際にチームには俊足の選手が多かったし、スラッガーは白川以外見当たらなかったが、バントやエンドランといった小技で着実にランナーを進塁させ、少ないチャンスを確実にモノにするというスタイルを確立しつつあった。
「緊張するなぁ・・・」
白川が不安そうに呟いた。
白川は新チーム結成後、守りの要であるキャッチャーを任されていた。しかし内角をつけない外角主体のリードはオーソドックスで、それなりに的を得た配球ではあったが、強気の平岡監督には物足りないらしく、よく絞られている姿を目にしていた。おまけに肩が弱いというのが、彼の最大のネックだった。送球は正確なのだが、捕ってからの動作に無駄が多く、盗塁を阻止できない場面を多々演じていた。それに加え、下級生で新人戦の頃は全く目立たなかった石川博史が著しい進歩を遂げていた。総合力ではまだまだ白川の方が上だったが、平岡監督は下級生への抜擢に躊躇がない性格。もしかするとレギュラーポジションは危ういのかもしれない。
七瀬の方は、すでに達観した心境になっていた。別にエースの称号を得ることを諦めたわけではないが、ここ数ヶ月、どれだけ努力しても酒井の圧倒的なピッチングには及ばなかった。それは身びいきして考えても比較になるレベルではなく、七瀬自身もそれなら何か別の形でチームに貢献できないか、と考え始めていた。平井はそういう七瀬を見て不満そうにしていたが、努力しているのは側で見ている自分が一番理解している、とも思うようで、あえて何も言わなかった。
平岡監督が白いメモ用紙を見ながら背番号を発表している。
名前を呼ばれた選手が、「はい!」と大きな声を上げ、マネージャー平井紗希が胸に抱える真新しい背番号を次々と受け取っていく。七瀬は十番目に呼ばれた。背番号10。どうやら控え投手の一番手は自分のようだ。なぜなら次に呼ばれたのが、同級生のピッチャー陣内克己で、通常同ポジションの場合は、背番号の若い選手から順にレギュラーに近くなる。自分以降の選手は控えということになり、十八人目までの名前が力強く呼ばれた。酒井は勿論エースナンバーの1。
「以上が、ベンチ入りメンバーだ。」
平岡は選手達を見渡しながら言った。
「だが・・・」
平岡は特にレギュラー陣を意識するように続けた。
「あくまでこの背番号は現時点のものだ。一月もすれば新入生も入ってくる。気を抜いた奴はどんどん代えていく。だから今名前を呼ばれなかった者にも充分にチャンスは残っていると思え」
七瀬は不思議な気持ちで平岡を見ていた。自分が肩を壊したかもしれない時、真っ先に気付き、病院を紹介してくれたのは監督だった。しかも今振り返ってみると、平岡監督は自分の肩の状態をよく理解していたのではないかと思う。それを知っていてわざとあの医者に自分を見せ、七瀬の野球に対する取り組みに注意を促したのではないか。優れた監督だと思う。心から尊敬できる。でも何故か心にはポッカリと穴が開いたようだった。監督なら俺を指名してくれるのではないか、という淡い期待感もあったからだ。自分には酒井を凌ぐ何かがあって、監督はそれを見抜いている・・・根拠のない話だが、こう思うのも仕方ないのかな、と思う。自分は控え投手をやる為に野球を続けてきたわけではないのだから。
練習後、選手それぞれが帰り支度をして帰っていく。レギュラー獲得に喜びを隠せない者がいる、喜びを噛み締める者もいる。逆にレギュラーに指名されなかったが、落胆の色を出さす気丈に振舞っている者もいる。そしてそれを隠せない者も。今の自分は周りにどう映っているのだろうか。
七瀬は暗くなりそうな気持ちを奮い立たせながら、白川に話しかけた。彼は見事レギュラーポジションを獲得していた。
「良かったな。おめでとう」
精一杯強がりに聞こえないように注意した。もしかするとそれは裏目に出る行為なのかもしれないが、自分にはそれ以外の振る舞いは思いつかなかった。
「うん、ありがとう」
白川は戸惑ったように七瀬を見る。喜びたい気持ちと、レギュラーになったというプレッシャーが同時に彼の心を行ったり来たりしているのだろう。あと七瀬への配慮もあるのかもしれない。
「チームにはスラッガータイプはお前だけだからな。まぁ妥当だよ。いくらランナーが出たってホームに返せなきゃ意味がない」
「すごい重圧ですよ」
白川が情けない声を出す。
「何言ってんだ。塁に出るのも返すのもプレッシャーは一緒。野球ってのは、各々の役割を選手全員がしっかり果たしてこそ機能するんだよ。しんどいのはお前だけじゃない」
「・・・分かってます」
「だったらそんな顔してんじゃないよ。勿論、俺らベンチの控えだってゲームに参加してる。ベンチ入りできなかった選手も同じだ。それにまだ大会は始まってないからな。気を抜いたら俺がお前に取って代わるかも知れんぜ」
「みっちゃんには負けませんよ」
白川がやり返してきた。そうだ、それでいい。
二人で少しだけ笑い合うと、視線の先に酒井が映った。奴も何だか暗い顔をしている。何だよ、お前もかよ、と七瀬は心の中で苦笑した。心根が優しいのは分かるが、こんなことじゃ試合の重大な場面で後れをとることになる。七瀬は完璧だと思われている酒井の唯一の欠点はそこにあると見ていた。
「おう、酒井。帰りに飯でも食って帰ろうぜ」
と、七瀬は酒井の肩を叩きながら声をかけた。酒井はビクッとして驚いたような表情で七瀬を見る。
「どうした?」
七瀬は不審に思った。怯えた表情にも見えたからだ。
「な、何でもないよ」
酒井はそれだけ言うと「今日は用事があるから」と言って足早に帰っていった。
「どうしたんだ、あいつ」
七瀬は白川に向かって言った。白川も怪訝な顔をしている。校門を出て行く酒井の後姿を、七瀬と白川は無言で見送った。
「お疲れ様」平井紗希の声がした。
「よう、お疲れさん」
七瀬は心臓が高鳴るのを感じながら平静を装った。どうも近頃、平井を見るとこういう症状に陥る。理由は分かっていたが、分かったからと言ってどうなるものでもないので七瀬はなるべく深く考えないようにしていた。自分にとって今はそれどころじゃない、はずだから。
「明日も・・・走るよね?」
平井は、誰かに聞かれるのをはばかるような小さな声で言った。
「当然だろ。大会までまだまだチャンスは残ってる」
七瀬は胸を張った。
すると彼女は、くすっと少しだけ笑みを見せると、「じゃあ明日」と言って校門に向かって女性にしては大きく感じる歩幅で歩き出した。彼女はいつもそうで、背筋をしっかりと伸ばして前を見て歩く。男の後ろを甲斐甲斐しく付いて行くタイプじゃないな、と七瀬は思う。すると校門の手前に矢野がいて「紗希ちゃん、バイバイ~」などと気軽に挨拶をし、気軽に無視されていた。もう何度目だよ、と思うが、矢野は全く懲りてない様子だ。
矢野は七瀬と白川を見つけると、何か良からぬことを企んでそうな顔つきで近づいてきた。
「ビッグニュースがあるんすけどぉ」
将来はミュージシャンより芸能レポーターにでもなった方がいいと七瀬は矢野を見ていていつも思う。三日に一回はビッグニュースという単語を口にする。その殆どがたわいもない噂話で、七瀬自身聞いていて愉快な話題ではないので、大抵は受け流すことにしている。しかしこの日、矢野からもたらされたビッグニュースは七瀬にとっては発狂モノだった。
矢野のスクープ・・・「酒井と平井は付き合っているらしい」
-15-
酒井のストレートが白川のミットに吸い込まれる。球質の重そうな音が七瀬の耳に響く。校舎の窓からギャラリー達が歓声を上げた。
「すげえなーどうやったら、そんな音が鳴るんだ?」
茶化すように言うと、酒井は「みっちゃんも見てないで投げ込みなよ」と言った。
七瀬の先には、レギュラーには洩れたが、虎視眈々と正捕手の座を狙う石川がミットを構えていた。来週の日曜日の練習試合は、七瀬と石川がバッテリーを組むことになっていた。石川にとっては少しのチャンスも逃せないといった心境なのだろう、七瀬の投げるボールを「ナイスボール!」だの「オッケー!」だの、大きな声を上げて必死にアピールしていた。七瀬だってエースの座を諦めたわけではなかったが、周りからは最早勝負あった、と思われている節があり、七瀬も何となくそんな気になってきていた。実際に外野の守備練習に割く時間も増えている。
反面、白川は苛烈なポジション争いの真っ最中だったが、全然声が出ていない。何をやってるんだ、おまえは・・・と、七瀬は肩を落としたが、自分も周りから見ればそう見えるのだろうと思うと情けない気持ちになる。大体、矢野のスクープ以来、練習に全く身が入らなくなっている。要するに酒井と平井が気になって仕方ないのだ。
「本当なんですか、それ?」
白川が興味深々と言った様子で矢野を見る。
「間違いないね」
矢野は自信満々で応える。
矢野の鋭い?推理は以下のような情報から構築されている。まず酒井と平井紗希はご近所さんだということ。次に同じ転校生同士気心が知れるのか、あの無口な平井が酒井とだけは親しげに会話をしていて、一緒に下校している姿が何度も目撃されてるということ。酒井の使っているタオルにイニシャルが縫われていて、その文字が「S・H」であるということ。美男美女でお似合いだということ・・・最初と最後のは何の関係もないじゃないですか、とすかさず白川のツッコミが入った。七瀬は考えた。ご近所というなら自分もそうである(関係ないけど)学校では殆ど話さないが、早朝のロードワークは毎日欠かさず一緒にやっているし、初詣にだって行った。でもなぁ・・・
投球練習の合間にチラチラと酒井と平井を観察するのが日課となっていた。普段は酒井の隣で投げ込みをすることなど滅多にないのだが、あのスクープ以来、なるべく酒井と行動を共にしている自分がいる。更にショックなことに、確かに平井は練習中に酒井を時折見ている。
「七瀬先輩!球が上ずってますよ。もう少し低く、低く!!」
石川の声が、七瀬の思考を遮断した。
分かってるよ、心の中で毒づきながら七瀬は目一杯の力で、石川めがけて右腕をしならせた。
-16-
トイレから部屋に戻る途中で電話が鳴った。
「もしもし、七瀬ですが」
「あ、光春?私、翔子だけど」
かすれた声と甘ったるいイントネーション。懐かしい声だった。それと同時に忘れかけていた会津翔子と過ごした日々の記憶も一気によみがえった。胸やけと共に。
「久しぶりじゃん」
七瀬はそれだけ言った。
「うん、久しぶり。あのさ、今からちょっと出て来れない?いつもの公園まで」
何を勝手なことを言ってるんだ、と心底思う。
「何で?」
「会って話すから。じゃあ、待ってるね」
翔子の声とほぼ同時に電子音。
七瀬は受話器を置き、壁に掛けてある時計を見た。針は二十三時を指している。相変わらず非常識な奴だ。こっちはまだ行くとも言ってないのに一方的に切りやがった。
公園に会津翔子はいた。一人じゃない。数人の男女に囲まれて何やら楽しそうに話をしている。手には煙草。公園のベンチ付近は吐き捨てられたツバと、食べ散らかしたコンビニ弁当が転がっている。
「あ、光春!!」
翔子が七瀬を見つけて真っ赤な唇の間から白い歯を見せた。何年後かにはヤニで黄色くなってんだろうな、と七瀬は瞬時に想像した。
「こいつが元カレ?」
金髪の少年が煙草を加えたまま翔子に尋ねる。見たところ年下。正直、翔子の友達にはこういう輩が多いので、粗末な扱いには慣れていた。
こういった輩には見掛け倒しの人間が驚くほど多いのを七瀬は知っていた。何度か揉め事に発展したことがあるが、大抵は外見に中身が伴っていない。それでも周りがこういった連中を恐れるのは、極めて例外的に本物がいるからだ。こいつらはそういった本物の威光にすがった虎の威を借りる狐だ。心の底からくだらないと思う。
「何か用?」
七瀬は少年を無視して翔子に話しかける。
「うん、あ、ちょっと待って」
翔子はそう言うと、仲間の輪の中に入っていく。そして下品な笑い声が大音量で発生する。
七瀬は翔子達からかなり離れたベンチに腰を掛けた。冷てぇな、くそ。些細なことに苛立つ。引き続き耳を刺激する笑い声。いつものことだ、と思う。何にも変わってないんだな、と。いや、変わってしまったんだな、と。
会津翔子とは同じ中学で、高校も同じ光陰高校に入学した。中学の時から社交的で活発な性格だった翔子は、いつもクラスの中心的存在だった。しかし高校に入った頃から言動が激変した。髪は茶色に染め上がり、スカートは足首を隠すほどの長さとなった。言葉遣いも荒くなり、煙草も吸い出した。七瀬はずっと見ていた。恋人だったからだ。
高校受験の前日に告白された。赤く染まった頬をマフラーで隠す翔子はとても可愛らしく、クラスのマドンナ的存在だった彼女が自分に好意を持ってくれたことが七瀬はとんでもなく嬉しかった。交際が始まり、彼女にのめり込んでいく自分を感じた。彼女が「野球よりラグビーが好き」と言った時は、本気でラグビー部に入ろうか迷った。だが、彼女は次第に学校に来なくなり、家にも帰らなくなった。
ある日のこと。七瀬は繁華街を夜な夜な徘徊しているという翔子の情報を聞きつけ、夜の街へ繰り出した。高校一年生の自分にとって、赤や青のネオンの光はたまらなく眩しく、ここはまだ自分のような年代の人間が来るところではないと肌で感じた。
翔子はいた。柄の悪そうな少年二人組と、目的がないのが目的だ、と言わんばかりに路上で煙草をふかしていた。
「帰るぞ」
七瀬はそう言って翔子の手を掴み、引っ張った。
「痛えな!離せよ!!」
翔子が叫ぶ。
翔子のそういう口調が、自分に対して発せられるのをその時初めて聞いた。その様子を見た少年二人が歯を剥き出して七瀬に掴みかかった。頭に血が上った。あとのことはよく覚えていない。七瀬は駆けつけた白川と矢部、そして教師達に連れられて学校へ。そして次の日から翔子の名前は学校名簿から消えた。退学だった。
何故、自分は退学にならなかったのか。七瀬は一時期、翔子に対して強い罪悪感を抱いた。そして自分の取った行動を悔いた。どうして最後まで冷静でいられなかったのか。白川や矢部に頼んで仲間を集め、翔子を探しに街に出たまでは良かったはずだ。現場に教師がいた。何故だ?俺は呼んでない。警察沙汰や学校に知られるのは絶対に避けたかった。それなのに教師は現場に駆けつけてきた。後日知ったのだが、仲間があらかじめ呼んでいたのだそうだ。
違う、翔子。違うんだ。俺はお前を助けたかっただけなんだ!七瀬は仲間を恨んだ。どうして俺の言うとおりに動かなかったんだ!昔は上手くいったじゃないか!!
七瀬は、人は自分で考えて行動できる生き物だということを忘れていた。自分がいつの間にか仲間を見下していたことも知った。自分の指示なしに動けるはずがないと思っていた。過信は翔子の退学という最悪の結果を生んだ。
正義感は誰しもが持っている。そしてその正義感が最も強い時期。それは子供の頃だと思う。あの小学生達を助けた時、自分達に打算的な考えなどなかった。あったのは不良中学生から女の子達を守る、という意識だけ。様々なことに考えが及ばないだけなのかもしれないが、それは時に勇敢なる意志となって人間を突き動かす。
翔子の一件と何が違ったか。答えは、知らない間に自分達が計算して物事を考えるようになっていたということだろう。常識で考えれば、自ら翔子を連れ出さなくても、教師に連絡さえすれば、少なくとも乱闘騒ぎにはなっていなかったろう。それを自分は青臭い仲間意識や倫理観で、警察や教師にバレたらマズイと計算した。だが同じように仲間も計算したのだ。自分達だけで行動し問題を起こすよりも、教師も巻き込んでしまえば降りかかる被害は最小限で済む、と。七瀬は翔子を救いたいと思い、仲間たちは七瀬を救いたいと思った。これがお互いの意識の中にあった決定的な差だった。
それ以来、七瀬は友達の人格を尊重するという意識を強く持つようになった。その意識は野球にも強く現れた。中学までは一人相撲なピッチングが多かった。打者は三振にしとめなければいけないと思っていた。しかしこの事件以降、バックを信頼して打たせてとるピッチングを模索した。球威や球速の問題も確かにあったが、意識の変化がなければ技術が精神に追いついたとは思えない。
七瀬は翔子の一件で得る物がたくさんあったと感じている。特に、一時の感情に任せて行動すると強い後悔を残すことを。だが、翔子はどうだろうか?退学から一年ほどは、翔子の消息は不明だった。家には帰ったり帰らなかったりの生活を繰り返しているらしく、両親でさえ滅多に会うことはないという。しかし七瀬は翔子とバッタリと出くわした。この公園で。
翔子は以前より大人びていた。茶色の髪は相変わらずだったが、七瀬に対して粗暴な口の聞き方はしなかった。その代わり金の無心が始まった。
最初の頃は、七瀬も罪悪感からか要求に素直に応じていた。しかし度重なる金の無心は、七瀬の月の小遣いだけでは対応できなくなっており、遂には貯金を切り崩すようにもなっていた。要求される額が露骨に大きくなってもいた。何度もこれ以上は無理だ、と言おうとしたが言葉に出来なかった。自分はまだ翔子との事を清算できていないのだ。翔子が仲間達とゲラゲラ笑っていた。七瀬はどうしようもない嫌悪感を覚えながらも待つことしか出来なかった。
「明けましておめでとう。光春、元気してた?」
翔子ははにかむ様な仕草を見せた。こういう仕草だけはどんどん上手くなる。そういえば今年に入ってから翔子とは初めて会う。だからさっきの電話で懐かしさを覚えたのか。
「翔子こそ、元気でやってんのか?」
七瀬は努めて昔のように話しかける。
「元気だよ。あ、そうだ、聞いたよ。野球部にすごい選手が入ってきたんだってね。こないだ会った時は何も言ってなかったから全然知らなかった。プロからスカウトが来るくらいの選手なんだって?すごいじゃん。甲子園も夢じゃないかも。ははは」
翔子はそう言って煙草に火をつけた。これだけは何度見ても似合わない。
「仕事、してんのか?」
七瀬は質問には答えず、翔子の近況を聞きだそうとした。金ならまだ何とかある。もう少しなら都合してやれる。でもこの関係が未来永劫続くはずがないし、良いわけがない。
「ボチボチやってる」
翔子はめんどくさそうに煙を燻らせる。
「ボチボチって何だよ。どんな仕事なんだ?」
翔子は「うっさいなぁ」という言葉を小声で吐き出すと、ベンチから立ち上がった。金の無心にくる時はいつもこうだ。会話もそこそこに要求を満たせばすぐに去っていく。
「幾らいるんだよ」
七瀬は言った。
「二万。ある?」
ちょうどそれしか持ち合わせていない。七瀬は無言で翔子に現金を手渡した。
「ありがと」
翔子はアイドルがブロマイドを撮る時にやるような仕草でペロッと舌を出した。そして「新エースってどんな人?やっぱ芸能人みたいなのかな」と言った。翔子の中でも七瀬は補欠のようだ。
「野球はルックスでやるもんじゃないけど、それらしきオーラはあるよ」
「へぇ、一度見てみたいな」
「見てどうすんだよ」
「別にぃ・・・じゃあ、あたし用事あるから。またね」
公園の入り口に黒い車が止まっている。車種とか詳しいことは分からないが、堅気が乗る車ではなさそうだ。翔子は、その車の助手席に身体を滑り込ませる。エンジンが唸りを上げた。
-恋バイ②- 
09/27
恋愛バイアス
-7-
期待の新戦力、酒井幸一の加入から二週間が過ぎた。噂どおりの選手、というのが偽りのない感想で、投げるボールも素晴らしかったが、人格も非の打ち所がない様子だった。挨拶もしっかり出来て、周囲への気遣いも抜群、おまけに成績も優秀だったので、まず教師陣には歓迎された。更に甘いマスクという武器は、いささか見慣れた同級生達を賞味期限切れ、と判断したのか、女生徒に絶大な好感触をもって迎えられた。当然、面白くないのは、光陰高校の不良グループだが、それなりの沈黙を守っていた。漫画じゃあるまいし、「てめーいきがってんじゃねーよ」ってな手段には出られないようだ。今のご時勢、そこまであからさまに悪役に徹する者などいないらしい。それでも最初の数日は過ごしにくそうにしていたので、七瀬は出来るだけ積極的にコミュニケーションをとるようにした。別に他意があったわけではないが、なぜか孤立した人間を放っておけない性分なのだ。
そうこうしているうちに、酒井の人柄はチームメイトをも惹きつけだした。彼自身、口数が多いタイプには見えなかったが、転校生という立場もあって、積極的にチームに溶けこもうとしたのだろう。そして先日、チームで行われた紅白戦で、酒井と七瀬は投げあうことになった。持ち前の負けん気で超高校級左腕に立ち向かったが、味方打線は完全に沈黙。まだ肩慣らしもしてない時期なのに、目にも止まらぬ速球と、「消えた」と称されるスライダーを武器に、一安打完封。七瀬も力投したが、回が進むにつれて、肩の痛みが限界に達し、無念の降板。監督には握力がなくなった、と答えたが、不甲斐ないエースに平岡監督は不満の色を隠さなかった。
そういえば酒井と同日に転校した女生徒だが、こちらも酒井に負けず劣らずの歓迎で迎えられた。まず容姿がずば抜けていた。綺麗とか可愛いとかという次元を超えた存在で、男子生徒だけでなく、女生徒の憧れの的にもなっていた。だが、酒井と決定的に違ったのは、彼女自身が、強力に無口だということだ。その無口ぶりは言い寄る男子生徒を木っ端微塵にし、女生徒からは神聖な存在として認知されるに至った。そして何より驚いたのは、彼女の選んだ部活動が、野球部のマネージャーだということだ。部内は突然のヒロイン誕生に色めき立ったが、無口という強力な武器は、チームメイトへの無言の圧力となり、いい格好をしたい選手達の練習に対する覇気となった。何故か平岡監督までもが、以前よりもさらに厳しくなり、練習量はグンと増え、帰宅時間は大幅に遅れることとなっていた。
「今日も練習、ご苦労さん」
矢野が、香水の匂いをプンプンさせながら、洗い場で顔を洗う白川に話しかけてきた。肩口の辺りまで伸ばした長髪。くせっ毛のようで襟足をやたらと気にしている。色白で背丈もあるし、パッと見は少女マンガの主人公のようで、まずまず女生徒から人気がある。しかし根っからのパフォーマー気質で、その軽薄さが根本的な人気獲得に至らないといういささか不幸な境遇の持ち主だ。白川からすれば自業自得という気がしないでもないが。
「あれ?まだ残ってたんですか?」
と、白川。「大体、察しはつきますが・・・」溜息混じりに呟く。
「最近、練習厳しそうじゃん」
矢野は意に介さず、いつもの陽気な表情で軽快に白川の肩を叩く。
「まあ・・・ほんとクタクタですよ。大好きなメロンパンが喉を通ってくれません」
矢野は「あんなもん、普通の体育の後でも通らねえよ」と、呆れ顔で呟くと、「あれ?元エースは?」と、聞いた。
白川は、タオルで顔を拭きながら「まだ元じゃないです」と言って、体育館の裏を顎でしゃくるように示す。
「何?誰かに愛の告白でもされてんの?」
矢野は興味深そうに体育館の方を見る。
「それならどれだけいいでしょうね。ある意味、大変な告白をされているのは間違いないと思いますけどね」
白川は傍目にも心配になるくらい沈んだ声で言った。
「おまえ、肩やってるだろ?」
平岡は突然切り出した。
やっぱバレてるか・・・七瀬は「はぁ」とだけ答えた。今更、嘘を言っても始まらない。入部した時からずっと指導してくれてきた監督だ。いつかはバレると思っていた。
「いつからだ?」
「夏の大会の直前くらいです」
「腕が上がらんようだな」
「はい」
「病院は?行ったのか?」
「いえ」
平岡は、ポケットから白い封筒を取り出し、「紹介状だ。これを持ってすぐに病院で診察してもらってこい。なぁに、心配するな。この医者は俺が大学時代に肩をやったときに親身になってくれた先生で、腕もいい」
平岡は七瀬の肩を労わるようにして少し触れ、「明日はグランドに来なくていい。先生とこに行って来い。いいな」
七瀬は練習を休むのが、何よりも嫌だった。どんなに体調が悪くても休んだことはない。監督もそれを知ってるはずだ。それでも休めと言われているということは、自分の肩はそれだけ深刻な状態にあるのだろうか。
「分かりました」
七瀬はショックを表情に出さないようにして、一礼して歩き出した。確かに肩は異常なほどに熱を持っている。不安を先送りにしている場合ではないようだ。でもここで肩に野球人生を左右するような症状を診断されたとしたら・・・俺はやっとエースの座にまで上り詰めたのに、これからって時にリタイヤかよ。七瀬は暗澹たる思いで、部室へと歩いた。
「絶望するにはまだ早いか・・・」独り言のように呟くと、勢いよくドアを開ける。
-8-
やっと見つけた・・・
-9-
「投げすぎだって」
昼休みの食堂は生徒達でごった返していた。笑い声以外は聞こえない、といった騒々しさで、青春の一ページ一行を乱暴に書き殴る。
「何ですか?」
白川が聞こえなかったのか、顔をしかめながら、いつもより大きな声で聞き返す。
「あとはね、フォームが悪いらしいね、俺は。下半身に粘りがないから、上体に頼るようなピッチングフォームになってんだって。その場でフォームの改善させられたよ」
七瀬は、手首をひねって投げる真似をする。
「病院ですよね?行ってきたの」
「そうなんだけどさ、結局、肩自体は疲労してはいるけど、問題ないんだって。おまえの問題はスタミナだって怒られちゃった。あとさ、俺って投球練習した後とかも、アイシングとかしないでほったらかしじゃん?そういうのもいけないそうよ」
「ずさんな体調管理って事?」と、矢野。
「ざっくり言うと、そんな感じ。なんかトレーニングについて熱く語られちゃってさ。とにかく走れっていうんだよ、あの先生」
白川は、箸を口に加えたまま「心配して損しました。ここ、みっちゃんの奢りですよ」そう言ってテーブルの隅にあるメニューをパラパラとめくりだす。
「まだ食うのかよ?」
矢野があきれたように言う。
「まぁでも良かったじゃん。ちょっと安静にしてたら元通り投げられんだろ?新人戦とか転校生とか色々あったから、柄にもなく無理したってことで一件落着じゃん。俺なんかどうやって慰めようかって・・・」
「でもなぁ」
七瀬は気が重そうに溜息を吐く。
「どうしました?まだなにかあるんですか?」
白川がめぼしいメニューを見つけたようで、半分腰を上げながら言った。
「走り込みって嫌いなんだよね、俺」
「走り込みが好きな人なんていないです。今まで才能だけで野球をやってたとこあるんですから。いつもの負けん気出して、ちょっと頑張ってみたらいいじゃないですか?じゃないとマジで補欠・・・ですよ」
白川は真剣に七瀬の顔を覗き込みながら言った。喧騒の中で「補欠」というワードだけが浮かび上がって聞こえるのは気のせいか。
「・・・補欠か」
矢野が含み笑いをする。七瀬は天井を仰ぐ。やるしかなさそうだ。
七瀬はまず、酒井のロードワークに張り付くことから始めた。超高校級だか何だか知らんが、同じ高校生にそれほどの差などあるはずがない。実際、七瀬は走ることは嫌いだが、足は決して遅くはない。遅くないどころかチーム一の俊足である。しかも高校一年のマラソン大会では、全校生徒中七位という好結果も出している。長距離だって苦手じゃない。嫌いなだけだ。七瀬は「お手並み拝見といくか」と、芝居がかったセリフを口にし、酒井の背中を追った。
空が青から赤へ変わっている。胃の中が空っぽになるほど吐いた。七瀬はぐったりと河川敷の原っぱにあお向けに寝転がっている。大往生モード。
「大丈夫かい?」
酒井が心配そうにハンドタオルを七瀬に手渡す。
「君、すごいね・・・毎日・・・こんなに走ってんの・・・」
「今日は少し多めだよ。七瀬君が一緒に走るって言うから張りきったんだ」
張りきるんじゃないよ、と心の中で突っ込みを入れながら「君さ、何で光陰来たの?」と聞いた。別に悪意はない。ただこれだけの選手が何故甲子園常連校でもない光陰高校に来たのかは興味がある。
「プロからマークされたりしてんでしょ?だったら甲子園常連校とかに行ったほうが良いんじゃないの?」
酒井は少し恥ずかしそうにしている。何を照れているんだ?
「もしかして野球漫画に憧れて、どっぷりその世界の中に自分を投影させてるんじゃねーだろーなぁ・・・弱小チームが全国制覇の夢を叶える!みたいなさ」
酒井は頬を赤らめている。乙女か、君は。
「え、そうなの?マジ?つーか本気なの?」
七瀬は上半身だけ起こして酒井の顔を覗き込む。うわっ、やべえ、急に動いたからまた吐き気が・・・
「格好悪いかな」
酒井が鼻をこすりながら七瀬を見る。どうやら本気らしい。
「べ、別に格好悪くないと思うよ。ただ、冒険心というか・・・チャレンジャーなスピリットの持ち主だなって思って」
「甲子園に行くのが夢じゃないんだ」
酒井は立ち上がる。
「そうなの?じゃあ・・・」
七瀬の言葉を遮るように酒井が堰を切ったように話し出す。
「僕にとっての甲子園は、目指すことに意味があるんだ。甲子園に行く為に、強豪校で野球をやるっていうのは、僕の中ではあまり意味がないんだよ。確かにそういう高校で日々頑張っている選手は凄いと思うし尊敬もする。でも、何て言ったらいいのかな・・・僕の憧れる高校球児ではないというか・・・」
口ごもる酒井に、七瀬が助け舟を出す。
「スポ根っぽくない?」
「・・・うん」
やがて酒井が柔軟を始めた。あれだけ走って、身体のケアも入念にやっている。大した奴だと思う。七瀬も疲労で自分の四肢とは思えない状態になった身体を無理やりほぐす。感覚よ、戻って来い。
しばらく二人で柔軟をやりながら、色々な話をした。好きなスポ根漫画は何?から始まり、好きなタレントは誰?だとか、普段音楽は何を聞いてるの?だとか。日はもうとっくに暮れていたが、酒井と七瀬は時間を忘れて話し続けた。そして汗も乾き、少し肌寒さを感じはじめた帰り際に酒井が言った。
「甲子園、行こうよ」
最上級に照れくさいセリフだと思った。マジで漫画だ。こんなこと言う奴が世の中に存在するとは・・・でもこれって青春っていうやつなのではないだろうか。悪くない気持ちになった。
「ああ」
と、だけ七瀬は答えた。
酒井はそれを聞くと「じゃあ、また明日」と言って、嬉しそうに走り去っていった。七瀬は思った。おまえは帰りも走るのかよ、と。
-10-
酒井とのロードワークを始めて一ヶ月が過ぎた。最初は付いていけずにいた七瀬だったが、この頃になると遅れはするものの何とか最後まで酒井の背中にへばりつけるようになっていた。これはいい感じに追いついてきたな、と好感触を得ていた頃に、七瀬は酒井から驚愕の事実を聞かされる。
「朝も走ってんの?」
七瀬は眩暈のするような思いで酒井に尋ねた。
「うん。雨の日以外は。肩を冷やすといけないからね。みっちゃんも雨の日は走るのは止めたほうがいいと思うよ」
雨の日どころか、晴れの日だって早朝になんか走ってはいない。駄目だ、こいつは凄すぎる。チョモランマ級の意識の高さを感じる。そんな練習量は反則だ。七瀬は不思議そうに自分を見つめる酒井に、不敵な笑みを浮かべる、という意味不明の反抗を見せて、その日の帰途についた。
陽は完全に落ち、帰り道のアスファルトは、街灯の明かりだけが七瀬の他に存在感を示している。凄まじい徒労感を感じていた。この一ヶ月というもの、白川や矢部と一緒に帰宅できてない。七瀬や酒井の帰りが遅すぎるからだ。時間は九時を回っている。七瀬は、近所の公園のベンチに腰を下ろした。
自分にとって野球とは何だろうか?と思う。子供の頃から、来る日も来る日も白球を追いかけて、バットをひたすら振った。たまの休みも、遊びといえば野球ゲームかプロ野球観戦だった。好きこそ物の上手・・・なんとかってことわざがあったが、飛び抜けて上手になる、とは言ってなかった気がする。高校に入ってからは中学時代とは比べ物にならない練習量に始めは挫折しかけた。甲子園なんて考えもしなかった。とにかくその日の練習をこなすのが精一杯だった。光陰クラスの練習でこのハードさなら、甲子園常連校の練習なんてとんでもないんだろうな、と漠然と思っていた。高校球児ではあるけれど、甲子園なんて別世界の話だと思っていた。
だけど酒井が転校してきて、彼の野球に対する取り組みを見て、自分もやらなければという気持ちになった。最初はきつかったが今ではそれなりに乗り越えられそうな予感もあった。しかし酒井はやはり別格だった。あの厳しい練習の他に、早朝にまでロードワークをやっていたとは。何だか急にバカバカしくなってきた。自分は何か勘違いしていたのではあるまいか。
気がつくとベンチで眠っていた。何故公園のベンチにいるのか記憶が定かではない。相当疲れているのだろうか?記憶が飛ぶなんて。酔っ払いか、俺は。
どれくらい眠っていたのだろう。雲ばかりの夜空がぼんやりと視界に宿る。目をこすり、身体を起こすと、目の前に、いや鼻先に缶ジュースを差し伸べる手があった。瞬間的に感じた。綺麗な指だ。
「ファンタ?」
七瀬は、缶ジュースを見た。
「好きだと思ったから・・・いつも、飲んでるでしょ・・・」
女の子の声だ。綺麗な声をしているな、まるで透き通るようだ。これも瞬間的に思った。顔を上げた。転校生だ。あ、うちのマネージャーか。名前は何だっけ?すぐに出てこない。ロードワークで、チームとは別メニューが多いからマネージャーとの接点は限りなく少ない。少ないどころか会話をした記憶すらない。そうだ、名前だ。名前、名前・・・
「やめるの?」
転校生が口を開く。やめる?何を?野球のこと?それともロードワーク?
「やめないよ」
考えるより先に言葉が口をついた。
転校生は無言のまま、腕時計を外し、七瀬に差し出した。そのゆっくりした動作を魅入られたように見つめる。右手にファンタ。左手に腕時計。
「何?時計?時計なら持ってるけど・・・」
「朝の六時にアラームが鳴るから。目覚ましに使って」
転校生はそう言うと、七瀬の座るベンチに缶ジュースと腕時計を置いた。そして間髪いれずに、ゆっくりと歩き出す。
「ちょっと待てよ!何だってんだよ、平井!!」
口にしてから思い出した。そうだ、平井だ。平井紗希だ。平井は、右から左へ流れるように振り向いた。そして凛とした表情で七瀬に言った。
「走るんでしょ?あたしにサポートさせて。起きたら河川敷のグランドに来て」
「お、おい」
「待ってるから」
平井はそれだけ言って去っていった。七瀬はその後姿をしばらく呆然と見送った。
-恋バイ①- 
09/26
恋愛バイアス
-1-
19××年××月××日 週刊×× ××号
先月、××市で凄惨なリンチ殺害事件が発生した。被害者は××さん××歳。
不良少年グループによるイジメがエスカレートし、××さん殺害に至った模様。府警は犯行に関わったと見られる少年四人を逮捕。
少年達は概ね犯行を認めているが、供述に食い違いも多々見られることから引き続き少年達を厳しく取り調べている。事件は衝撃的だった。
××日未明、××市河川敷にて××さんの遺体が発見された。遺体は激しく損壊しており、当初は身元の判定も困難なほどであった。被害者はガ×バー×ーで炙り×きにされており・・・
-2-
また、目が覚めた。
七瀬光春はぼんやりと空を眺めていた。入居以来、手入れされたことのない壁伝いの天井は酷く黒ずんでいる。これが彼の空。染み、シミ、しみ・・・
今年で三十八歳になる七瀬は、無気力の塊だった。高校を卒業してから幾つかの定職についたが、どれも長続きせず、様々な逃げ道を作っては離就職を繰り返した。
見かねた両親や親戚、友人が折を見ては仕事を紹介してくれたが、そういう善意が彼に届くことはなかった。七瀬自身、それで良いというふうには考えなかったが、どうしても気力が途切れる。それでいて自尊心が強いものだから、上司や同僚と揉めることが多く、その度に人間関係に嫌気がさし、現実から逃避した。
今にして思えば、まだその頃の方が人間としてはマシだった気がする。それというのも、今では職場の人間と会話を交わすこともなければ、挨拶すらしない。認められたいという気持ちもなくなった。それ故に認めるという考えにも思いは至らなくなり、ますます人間関係の扉を閉ざす結果となった。彼にとって、仕事は生きていく糧に過ぎず、それすらも今の自分にはままならない。もはや生産的な価値など、他人から見ればありはしないのだが、七瀬自身、死にたいという衝動に駆られたことは一度もなかった。いや、彼は死ねない、と考えていた。
自ら命を絶つ人間を弱い生き物だったと断言する者がいる。死ぬことを思えば何でも出来ると言う。果たしてそうだろうか?生きることの過酷さが、死への恐怖を乗り越えた時、人は死を選ぶ。生きることへの執着をなくすのだから、死ぬ気になれば何でも出来るという思考には繋がらないのではないか。
死を選ぶ。自ら。その行為は正常な判断の元に下されているのだと思う。少なくとも狂ってはいないと思っている。一人の人間が自らの人生に終止符を打つ行為を「狂っていた」という言葉ですませていいのだろうか。あいつは弱い奴だった、とすませていいのだろうか。
七瀬は死にたいとは思わない。だが生きていたいと強く考えているわけでもない。死ぬ気もないのに、死を思う。それを誰かに告げるわけではない。だが、自分が追い詰められていることのSOSを発信したいと思ったことはある。死ぬ気はないが、死をも視界に入るほどに自分は苦しんでいるのだ、と。
死を選ぶ人間は、死を周囲に吹聴することはないと言う者がいる。本当に死にたい者は、死を肯定しない人間に自分の意志を阻まれることを嫌うから黙って死ぬのだと。いや、話す気力すらないのだ、と。それに対しても疑問に思う。ある人物にとっては黙って死んだように見えるかもしれない。だがある人間から見れば、自分はSOSを受け取っていたのに、と感じるかもしれない。結局は、死を選ぶことになる人物との関係性ではないか?黙って死んだのではない。語るに足らぬ、と判断されたのだ。死を吹聴したのではない。助けてくれ、と手を差し伸べていたのだ。人は喜怒哀楽を表現する、表現してしまう生き物だ。何の意思表示もせず、日々を暮らしていくことは不可能だ。そういう意味では、七瀬はもはや生きる屍のようだと思う。限りなくゼロに近い生命反応。それはいつ灯火を失うのだろうか。
時計に目をやると朝の六時。七瀬は気だるさに支配された身体を起こし、携帯電話を手に取る。少しのためらいもなく職場に連絡を入れ、今日は体調が悪いので、と一方的に切り出し電話を切った。
生活に余裕はない。それこそ今月の家賃にすら困っている。それでも働く気がしない。いつから自分はこうなったのかと思う。
彼には兄弟はいなかったが、子供の頃は病弱な母親を助けて、よく家の手伝いをする子供だった。性格も明るく、思いやりがあり、困った人を見ると黙っていられなかった。彼は両親の希望だった。そして自身もそれを充分に自覚し、両親や周囲の期待に沿うべく努力した。勉強は得意ではなったが、やる前から投げ出すようなことは絶対にしなかった。何事にも全力投球する。結果は問わないが、結果を出す為に最善の方法論を探った。例えば、彼にはこんなエピソードがあった。
小学六年生の頃、七瀬少年が友人数人と歩いていると、赤や黄色のランドセルを背負った女生徒数人が、見るからに不良!といった中学生数人にカツアゲをされている場面に遭遇した。口元をニヤつかせてはいるが、目は全く笑ってない。体格は自分達とそれほど変わらないように見える。しかし小学生の目から見た中学生は、もう立派な大人だ。金や茶に染めた髪は、少年達を畏怖させるのに充分だった。声を失う友人達。露骨に後ずさりする者もいる。けれど、七瀬少年は彼らに挑んだ。
七瀬少年は、あらかじめ近所の交番に友人を走らせ、警官が駆けつけるようにしておいてから、友人の中でも、特に気弱そうな少年を一人選んで、中学生達にカツアゲ行為を止めるよう話しかけた。中学生達は色めきたった。ガキが生意気に何を言いやがる、とばかりに七瀬少年と友人を取り囲み恫喝した。
七瀬少年はわざと黙った。人は相手に黙られると、自分から話さずにはいられなくなる。しかも挑戦者は小学生である。中学生達の怒号はピークに達した。それでも七瀬少年は声を発さない。最初は膝が震える感覚だった彼も、聞くことだけに専念していると、これが意外と面白いことに気付く。声を荒げてはいるが、基本的にキーが高い。テレビで見る仁侠映画や不良学生を扱ったドラマの迫力とは程遠い。まだ声変わりをしてないのだな、と自分もしていないくせに失笑したい気分になる。
中学生達にとって七瀬少年の態度は相当生意気に映ったのだろう。髪を見事に金に染め上げ、後ろ髪を際限なく伸ばしている一人の中学生が、七瀬少年の胸倉を掴みあげる。すると、それに呼応するように、不良達の中でも一番実力が不足していそうな中学生が、これまた甲高い声を上げながら、七瀬少年の友人の肩を掴んだ。勝てる相手、と算段したのだろう。それでも自分ではなく、友人を選ぶこの男に侮蔑の感情が沸き起こる。しかし肩を掴まれた友人にはそうは映らなかったようだ。傍目から見ても、可哀相なくらい青ざめている彼の涙腺が、洪水警報を発令しようとしたその時・・・
別働隊の友人が警官を連れてやってきた。中学生たちは一様にバツが悪そうにし、慌てて逃げようと図ったが、七瀬少年は、ここにもう一つ手を打っていた。友人一人を近所の商店街に走らせ、助けを呼ばせていたのだ。道は一本道。上手から警官、下手から商店街の強面の大人たちに包囲された中学生達は、お手上げであった。
この事件で彼が素晴らしかったのは、自分だけではなく少年達全員で事に当たったことだろう。各々が各々の役割を明確に果たし、完全に作戦を成功させた。だから少年達は身内で功を競い合うこともなかったし、そういう配慮をした七瀬少年を深く信頼した。そして何よりも暴力を使わずに事件を解決したことは、彼らにとって自慢となった。
では何故、七瀬少年がここまで大胆な行動に出られたのかだが、答えは簡単だった。彼の近所に住む中学生が悪名高い不良で、彼はその不良中学生に普段から可愛がってもらっていたからだ。もし暴力をふるわれたら告げ口すればいい、くらいに考えていた。そして何より七瀬少年の頭にあったのは、その不良が一学年下の中学生達と揉めた時に、ガキ相手に喧嘩なんかできっか!と、うそぶいていたこと。確かに自分なら下級生相手に暴力なんてふるわない。そうなってくると、自分達にできることは時間を稼ぐことだけ。それならやってやれないことはない。
七瀬は煙草を燻らせながら、ぼんやりとテレビを眺めていた。特に見たい番組はない。というより、この時間はどのチャンネルも芸能人の浮いた話や沈んだ話ばかりで、かじりついて見なければならない、ということはない。だが彼にとってテレビを見るというのは、習慣的に身についた行為だった。
耳慣れた電子音と共に画面にテロップが流れる。吸い込んだ煙を吐くことが出来なくなる。全ての動作が停止し、目だけが画面に釘付けとなる。
地震・・・か。溜息と共にゆっくり煙を吐き出した。安堵なのか落胆なのか。その意味は自分でももはや分からない。
しばらくしてから彼は、もう何日も洗っていないスポーツタオルを手に取り、軽く顔を洗ってから、ヤニくさい部屋を出た。仕事に行く気力や意欲はないが、彼には一つだけ、もう二十年も毎日、欠かさずに続けてきたことがあった。外は秋というには寒く、冬というには暖かい陽気だった。年季の入ったオンボロの自転車にまたがると、いつものようにダラダラと漕ぎ出して、あの河川敷に向かう。
-3-
男の声で目が覚めた。
皺が多く、眉間に刻まれた深い谷は、男の半生を物語っている。見慣れた顔のはずなのに、今日だけは少し違って見えた。男は唇が動くより先に、声を発した。声にならない声だった。
「そう・・・」
彼女は実感なく呟いた。もう二十年も彼女はこの日を待っていた。いや、待っていたのだろうけれど恐れてもいた。様々な思いが心の中を交錯したが、それは表情にも言葉にもならなかった。
「会いに行かなきゃ」
独り言のように呟いた。
男は何も言わなかった。そして踵を返すと、廊下を足早に去っていった。陽射しはまだ差し込んでいなかった。
-4-
七瀬は河川敷に着くと、顔見知りの老人に挨拶をする。滅多に人付き合いのない七瀬だが、この老人にだけは、挨拶をするようにしている。いや、できるといったほうが正しいか。
人工的に作られた自然。川べりは綺麗に舗装され、秩序立てられた間隔でベンチが整然と備え付けられている。そこにまるで機械のように、毎日ベンチで新聞を読み煙草をふかす老人。
「今日も朝から不機嫌そうですね」
七瀬は軽く老人に話しかける。
老人は気にした風でもなく、ふん!と鼻を鳴らすと、大儀そうにベンチから立ち上がり、おもむろに手に持っていた新聞を七瀬に見せた。
記事は、法務大臣が死刑執行のサインを今月になって四件も押したことを非難し、さらには法務大臣を死神だと罵っている。おおかた死刑廃止論者の戦意高揚を目的として書かれているのだろうが、七瀬にしてみればピントがずれている気がした。そもそも法務大臣には死刑を執行する責務があり、その責務を果たせないのであれば、法務大臣になるべきではない。いつだったかの法務大臣が、私は死刑執行のサインを一度もしなかった、と誇らしげにテレビで話していたが、それは言うなれば職務放棄で、別に威張って語るべきものでもないと思う。まあ、今の自分が職場放棄を語れる身分にないことは分かっているので、記事に対して感想を述べるわけでもなく、七瀬は老人に新聞を返した。
老人は何か言いたそうでも、言いたくなさそうでもなく、不機嫌に唇を結びながら七瀬のストレッチしている姿を見ている。最初の頃は気になって仕方なかったが、今ではそうでもなく、逆に老人が河川敷に現れない日があると、少し心を乱されたりもする。
ストレッチが終わり、七瀬は走り出した。長距離ランナーが走るようなスピードではなく、ゆっくりと景色が見渡せる程度のスピードで走る。十分もするとしだいに身体が熱くなり汗ばんでくる。そして二十分も過ぎる頃になると、走り出した時に感じた熱気は心地良いものに変わり呼吸も安定してくる。そして彼の頭にあの声が囁きかけてくる。聞こえるはずもない声。昔は、この声が四六時中、彼の頭を離れることがなかった。しかし年月を重ねるにつれて、この時間だけに聞こえる声となり、いつしか稀に聞こえてこない日もある。それを幸福に感じることもあるし、不幸に感じることもある。目的などないのだが、彼は未だにこうやって走ることを止められないでいた。
いつもの休憩地点で足を止めた。河川敷の土手を上がった所にある自動販売機で、スポーツドリンクを買う。この自動販売機はワンコイン、つまり百円でスポーツドリンクが買える。別にケチってここでドリンクを買うわけではない。走る時に小銭をジャラジャラとポケットに入れながら走れないので、ワンコインで買えるのは都合がいいという理由だ。あともう一つ、この場所を休憩地点にしているのは、彼にとって思い出の場所でもあるからだ。どうしてもこの場所に来ると足が止まる。
空はもう充分に青く、陽射しが強く照りつけていた。七瀬はスポーツドリンクを一口だけ口に含み、吐き出す。そうしておいてから次に、喉を鳴らしながらゴクゴクと飲んだ。
金属音がした。七瀬はいつものようにその場所を見る。河川敷のグランドでは、少年野球チームが元気よくグランドを駆け回っていた。今日の柔軟は早かったな、などと思いながら、マウンドに立つ少年に自然と目がいく。小柄だが、勢いのあるボールを投げる子で、ダイナミックなオーバースローからはじき出される白球は、力のある音でキャッチャーのミットに吸い込まれていく。一時期、変化球を投げる練習をしていたようだが、今はストレートだけを投げ込んでいる。七瀬はそれでいいと思う。ピッチングの基本はストレート。変化球というのは、それを生かすための存在であるのが正しい。子供の頃からスライダーやらファークやらを覚えて、腕が下がっていくのはこじんまりとした印象を受けて好きではない。子供は好奇心旺盛だから、何にでも挑戦したくなるが、それをグッと我慢させるのも指導者の大切な役目だと思う。そういう意味では、あの腹の出た中年の監督は、なかなかのものなのではないか、と想像する。
このチームだけではないが、左打ちの選手が目立つ。恐らく、かの大物メジャーリーガーに影響されたのだろうが、それはそれで右に慣れへのようで面白くない。確かに左打ちはあらゆる面で有利である。まず第一に一塁ベースに近い。右打者に比べて一歩半は近いから、当然、内野安打の可能性が高くなる。また高校生までのレベルなら走り打ちというのも、案外と通用する。プロや大学・社会人に比べて、守備力というのは低いから、内野手が焦って失策をしてくれることも多々ある。そういう七瀬も走り打ちが抜けなかった。よく監督が言っていた。「ロングヒッターもアベレージヒッターも共通して大切なのは、強く振る、ということだ。ロングヒッターはブンブン振り回してミートは関係なく、アベレージヒッターは、ちょこんと当てたら、それで良し、なんてことはない。どんな打者でも大切なのは強く振り、ボールを芯で捉えることだ」と。確かにそうだと思う。ちょこんと当てる素振りなんて見たこともない。
ボールが転がってきた。幼さを充分に残した選手が、帽子を取って頭を下げながら走り寄ってくる。ボールを右手で掴むと、少年の胸元にめがけて投げ返す。少し逸れた。いつもここで見ている顔見知りのおじさんという感じで、少年は笑顔を見せてグランドに戻っていく。七瀬も笑顔を作ろうとするのだが、表情に変化はない。自分はいつから笑わなくなったのか。
それでもこの場所で、こうやってたまに飛んでくるボールを少年に投げ返すという行為は、七瀬にとって数少ないコミュニケーションの一つだった。これがなければ自分はどうなっていたか、とすら思える。
七瀬は野球が好きだった。野球が全てとは言わないが、七瀬の青春時代にこの金属音とミットを叩く音は欠かせないし、汗と草の匂いも、その時代を喚起させる大切な要素だ。そしてもう一つ・・・ゆるやかに白い靄がかかる。やめよう。やめるんだ。七瀬は思考を振り払うように立ち上がった。
軽く身体をほぐし、残ったスポーツドリンクを飲み干すと、土手を上がって、ペットボトルをごみ箱に投げ捨てる。ストライク。そして、スポーツタオルの置いてあるベンチに向かうと、ある球体が目に入った。ボールだ。何年もの時間を経たと思わせる硬式のボール。色はひどくくすんでいるが、縫い目だけはしっかりと縫合されていて、どれだけ大切にしてきたのかが分かる。そう、彼女もこうしてボールをいつも補修していた。
ボールを掴むと同時に、背後に気配がした。振り向くと、一人の女性が立っていた。白のワンピース。その女性はグローブを左手にはめていた。見慣れたグローブ。あれは・・・女性は軽く右手でグローブを二度叩く。
「ボール、投げてもらえますか?」
風が吹き抜けた。汗ばんだ身体を包み込むようだ。音が消えた。青い空、草の匂い、そして。全てが自分だけを残して過去にタイムスリップしたような感覚。それでもその感覚はすぐにあの頃へと戻った。いったん目を閉じてから、七瀬はボールと女性を交互に見渡すと、少しだけ力を込めて投げ返した。
「久しぶりだね」
ボールだけではなく、幾年か振りに力のある声で七瀬は言った。
-5-
府大会の三回戦で高校二年の夏が終わった。決して弱いチームだとは思わなかったが、クジ運は残酷なまでに弱かった。まさか甲子園ベスト4にまで進んだ共栄高校と当たるとは。
七瀬は夜の公園で白川健二と素振りをしていた。新チームのバッテリーで、七瀬はピッチャー、白川はキャッチャーである。七瀬は新チームのエースだったが、秋の新人戦で、二回を五安打・二四球という不名誉な成績でチームの門出に水を差し、初戦敗退のMVPに輝いていた。
「みっちゃん、素振りもいいけど走りこみもしといたほうがいいですよ」
と、白川が言う。
体格だけは二人前だが、心根が優しいのか、気が弱いのか、打者の内角をつけないリードが有名で、豪快な長打力とは裏腹にチームの悩みの種でもあった。しかも同学年なのに敬語で話す。これは七瀬に対してだけではなく誰に対してもである。心底、不思議であるが、タメ口で話せよ、と言うと途端に無口になる。何処の良家の御曹司なのだ?と訝しむが、思いっきり豆腐屋の倅だ。
「おまえこそ、素振りなんかより格闘技かなんか習って、精神を鍛えたほうがいいんじゃねーの?大体こないだの試合は、おまえの弱気なリードが、俺の闘志に冷や水ぶっかけたんだからな」
「よく言いますね。内角つくだけのコントロールがないから、外で勝負してるんです。みっちゃんに内角主体のリードなんかしたら、野球がプロレスに競技変更されてしまいます」
「見てるほうは楽しいかもよ」
「僕の身にもなってください。バッターに一番近いのは僕なんですから」
七瀬と白川が通う光陰高校は、府内の公立高校で、学力普通、スポーツ普通という極めて標準的な高校である。彼らの所属する野球部も、強くもなく弱くもなくというレベルだった。しかし三年前から、野球好きの校長の就任に併せて、野球部を強化する動きがあって、俄然勢いを得ていた。が、そこは公立高校の悲しい現実で、かろうじて新監督を迎えることに成功しただけで、後は練習あるのみ、といった状態。しかし指導者が代われば高校野球は変わるもので、新監督平岡の指導の下、光陰高校野球部は目覚しい進歩を遂げて、ベスト8も夢ではないところまで実力を伸ばしていた。だが、先に述べた通り圧倒的なクジ運の悪さも手伝って、結果を出せずに今年の夏を終えていた。
「明日、いよいよ転校生が来るらしいですね」
白川が練習後に欠かさず食べるメロンパンを頬張りながら言った。
他府県の有力な選手が、家庭の事情か何かで転入してくるという噂は、何となく耳には入っていた。そしてその噂が、チームに微妙な空気を吹き込んだのも事実だった。七瀬は、初戦敗退のMVPとはいえ、キャプテン安藤とは双璧をなす、新チームの支柱的存在である。その七瀬のポジションに転入生がやってくる。しかもその転入生、プロがスカウトに来るほどの実力の持ち主だそうで、MAX142キロの速球を軸に、高速スライダーを織り交ぜる超高校級左腕なのだとか。七瀬にそんな球速のストレートはないし、変化球は恐ろしく微妙なスローカーブがあるだけ。しかも腕の振りが、ストレートを投げる時とカーブを投げる時に露骨に違う。打者は七瀬の投球モーションで球種を予測できることが出来、狙い打ちが可能となる。悩ましい・・・もしくは致命的欠点だ。それでも新チームのエースになれたのは、スピードガンには表れない直球のキレと、マウンドでの強靭な勝負度胸があったからである。今まで同じ釜の飯を食った仲間の危機に、チームメイトは会ってもいない転入生に不快感をあらわにした。
新チームにとって必要なのは結果だった。現チームでも充分にやっていける。それを周囲に認知させる必要があったのだが、秋の新人戦では、肝心の七瀬が完全に空回りをしたのだ。そして人には言えないが、肩に多少の違和感を感じるようにもなっていた。だがそれを知られたくない七瀬は、逆に肩を酷使するメニューを率先してこなし、最近では朝起きると、右腕が上がらないという状態にまでなっていた。
「ありゃー全校の女生徒の憧れの的になるぞ」
七瀬は雑誌で見たライバルの容姿を思い出していた。メロンパンとミックスジュースという脅威の組み合わせに舌鼓を打つ白川が大きく頷く。健康的な顔立ちに白い歯、それに何といってもあの爽やかな笑顔には敵う気がしない。見た目では圧倒的に不利だよな。
「野球は顔でやるもんじゃないですし・・・」
白川が慰めるように言う。
「当たり前だろ。顔でレギュラーが決まるなら、おまえなんて入部もできない」
白川は面白いものを見るように言う。
「元気ありますね」
「戦闘体制はバッチリだからな」
白川はバットをおもむろに抱えながら言った。
「その元気が野球に向いてくれることを願いますよ。お願いですから、バットを竹刀替わりに、闇討ちなんてことはしないで下さいね」
-6-
朝の全校集会前の教室はざわついていた。衝撃的な新事実が生徒達に知らされたからだ。
「転校生って一人じゃないらしいぜ」
クラスメイトの矢野が興奮している。こいつは男だてらに天文部なるものに所属しているのだが、部室で何をしているのかと思えば、ずっとギターを弾いているという変り種である。「軽音部行けよ」と、言ったことがあるが、あんな下手くそと一緒に音を出したら感性が鈍るのだそうだ。
「じゃあ、二人?」
七瀬が聞く。
「ああ、そうらしい」
と矢野。
「まさかキャッチャーじゃないでしょうね」
白川が不安そうにしている。まさか・・・とは思うが、初戦敗退を演じた新チームの問題バッテリーを、これを機会にそっくり入れ替えよう!なんてことがあるのかもしれない。そうなったら・・・困るな。
「ばーか、違うよ」
と矢野が、ツッコミを入れる。
「女だよ、女。男の転校生なんかでざわつくはずがないだろ。女の子らしいぜ、もう一人の転校生は。しかも俺の仕入れた情報では、とびっきり可愛いらしいぞ」
「ほんとですか?」
白川が安堵と期待の混じったまなざしで矢野を見る。満足そうな矢野。そして危機的状況は全く変わらないのに、可愛い女子転校生に胸を躍らす七瀬であった。
-資料- 
09/07
れいんDropす
Words&Music/M.Nakakouji
れいんDropすを拾った
手にしたら弾けて消えてた
友達にさりげなく聞いたら
それはユメだよ、なんて
雨上がり君とお茶してた
またれいんDropす拾った
今度はなくさない
ポケットに無理やりねじ込んだよ
それはいつかコインになり
拾うたびにユメを買った
もっと落ちてこないかな
待ちきれなくて 手を伸ばす
折れた翼 次は足で
飛べないなら次はこの声で
届くように 届いてくれ
お願いだから もう夢なんだ
そんなにすごくなくてもいい
微笑んでくれるくらいでいい
通り過ぎたあとに気づく
あの花くらいでいい
感動デフレ 沈む君
目に見えない僕は言った
-闇雲に手を伸ばしたら
きっと何も手にできない-
迷う翼 次は足で
出来ないなら次はこの声で
れいんDropす もう一枚
片道 帰りはいらないから
どんなにあっけなくてもいい
足跡も残せなくていい
たまに君の背中を押す
あのユメくらいでいい
君にれいんDropす
運ぶ あの風くらいでいい
Words&Music/M.Nakakouji
れいんDropすを拾った
手にしたら弾けて消えてた
友達にさりげなく聞いたら
それはユメだよ、なんて
雨上がり君とお茶してた
またれいんDropす拾った
今度はなくさない
ポケットに無理やりねじ込んだよ
それはいつかコインになり
拾うたびにユメを買った
もっと落ちてこないかな
待ちきれなくて 手を伸ばす
折れた翼 次は足で
飛べないなら次はこの声で
届くように 届いてくれ
お願いだから もう夢なんだ
そんなにすごくなくてもいい
微笑んでくれるくらいでいい
通り過ぎたあとに気づく
あの花くらいでいい
感動デフレ 沈む君
目に見えない僕は言った
-闇雲に手を伸ばしたら
きっと何も手にできない-
迷う翼 次は足で
出来ないなら次はこの声で
れいんDropす もう一枚
片道 帰りはいらないから
どんなにあっけなくてもいい
足跡も残せなくていい
たまに君の背中を押す
あのユメくらいでいい
君にれいんDropす
運ぶ あの風くらいでいい